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73-17.高塚遺跡が最古の製鉄遺跡である証拠は隠されていた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

高塚遺跡のフロヤ区からは、5点の製煉滓が出土している。鉄滓の出土状況を見える化するために、鉄滓が出土した竪穴住居をカラーで色付けした。私の判定で製錬滓は赤、精錬滓は青、鍛錬滓は緑、ガラス滓はピンク、分析されていないものは黄色とした。判定が製錬滓or精錬滓のように二つに分かれる場合は左右に色分けし、製鉄工程が異なる2点の鉄滓が出土している場合は上下に色分けした。また、炉跡のある住居は灰色とし、フロヤⅢ区の中世時代の畝状溝から出土した製煉滓も古墳時代の鉄滓として図Z474に記載した

 

Z474.高塚フロヤ古墳時代遺構.png

フロヤⅡ区の竪穴住居36・38には住居の中央に炉跡がある。両者とも年代は古墳時代の初め前期Ⅰの段階である。高塚遺跡から出土した鉄器は古墳前期のものは少ないが、弥生時代終わりの後期Ⅳ段階の竪穴住居跡や方形土壙から鏃・鉇(ヤリガンナ)・刀子などの鉄器が多数出土している。製鉄が行われる前から鍛冶の技術的下地があったのであろう。製煉滓は古墳時代の中期から後期の竪穴住居跡から出土しており、製煉を伴なう製鉄が長期に渡り行われていたことが推察される。

 

フロヤⅠ区の竪穴住居47から出土した鉄滓は、T-eが28%、製鉄指標は0.76の鉱石の製煉滓が出土している。分析者も製錬滓と認めている鉄滓である。この鉄滓について分析者は「鉱石製煉で排出された炉内滓の小割り破片である。5世紀4前半から中世にかけての層位からの出土であるが、後者の中世に属する鉄滓であろう。」としている。しかし、古代~中世の遺構図をみると、竪穴住居47の位置には室町時代の土壙186がある。土壙186の深さ11cmで、古墳時代の地層に混じり込むような穴は無い。製煉滓が出土した竪穴住居47からは初期須恵器が出土しており、年代は中期Ⅰ段階とされている。

 

フロヤⅡ区の竪穴住居28(中期Ⅰ段階)からは、楕円形の強く被熱した橙色焼土が2ケ所あり、その周囲に炭が分布しており炉跡と確認されている。その傍にある土壙169(中期Ⅰ段階)は、2.x.mの楕円形で深さは約8cm、底面には部分的に焼土が残存し、埋土には炭が含まれていた。私は土壙169に角田Ⅱ区から出土した鍛冶炉1と同様の製鉄炉があったのではないかと考える。これらの遺構からしても、竪穴住居47から出土した鉄滓は、中期Ⅰ段階のものであることが分かる。古墳中期Ⅰ段階は報告書の編年対比表を見れば5世紀の前半ということになる。

 

フロヤⅠ区の竪穴住居47から出土した製錬滓は中世のもの、角田Ⅱ区から出土し鍛冶炉1は中世のもの。角田Ⅲ区の河道9から出土した製煉滓は中世のもの。高塚遺跡で製錬に伴うものは、全て中世のものとされている。しかしながら、中世の建物跡からは製鉄関連遺物は一切出土していない。製鉄関連遺物が出土する建物跡は、古墳時代だけである。調査報告書は、何故か高塚遺跡で古墳時代に製鉄が行われたことを葬り去ろうとしているように思える。報告書は高塚遺跡の北北西5Kmにある最古(6世紀後半)の製鉄遺跡とされている千引カナクロ遺跡に忖度して、竪穴住居47から出土した鉄滓を中世のものにしたのではないかと邪推する。


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