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73-16.最古の製鉄遺跡は岡山市の高塚遺跡 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

73-16.最古の製鉄遺跡は岡山市の高塚遺跡

5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える候補地として、福岡県北九州市小倉南区の地域、岡山県総社市の造山古墳周辺地域、大阪府堺市の百舌鳥古墳群の南端地域を挙げた。最初に製鉄が行われたのは、3地域の何処か選ぶとするならば、私は岡山県の造山古墳周辺地域にある高塚遺跡(岡山市)のと考える。2000年に岡山県教育委員会が発行した『岡山県埋蔵文化財調査報告150 高塚遺跡・三手遺跡』を精読し、たぶん編纂者とは違った見解で、高塚遺跡こそ5世紀初めに我が国で最初に製錬を伴なう製鉄が行われた遺跡であるとの結論に至った。

 

高塚遺跡は足守川とその支流である砂川に挟まれた水田の下にあった。行政区分では岡山市高塚であるが砂川の対岸は総社市で、図Z471に示すように500m✕20~75mで、角田区・フロヤ区・塚廻り区の三区に分けて発掘調査が行われ、現在は岡山自動車道の下に眠っている。フロヤ区の弥生時代の地層からは、高さ58cmの完品の銅鐸が出土し、また中国の「新」時代の貨銭が25枚出土している。韓国系の陶質土器や軟質土器を多数出土していることからしても、弥生時代から先進文化地域であったことは間違いない。そして高塚遺跡の北北西5Kmには、最古(6世紀後半)の製鉄遺跡とされている千引カナクロ遺跡があり、製鉄が行われたとする環境は整った地でもある。

 

Z471.高塚遺跡調査区.png

埋蔵文化財調査報告書は1554ページにおよび、膨大な発掘資料をまとめているが、「鉄滓」については遺物としては“ままこ”扱いで出土品一覧にも記載なく、本文と付載の「高塚遺跡出土製鉄・鍛冶関連遺物の金属学的調査」から27点の鉄滓を拾い集めた。なお、その内の17点が化学分析がなされ、始発原料は全て鉱石で、その内の6点の製煉滓は分析者と私の判定は一致している。6点の製煉滓の年代をみると、5世紀前半or中世が1点、6世紀が2点、6世紀末が1点、中世が2点であった。化学組成表にある鉄滓の推定年代は分析者の見解ではなく、発掘調査および報告書作成を担当した岡山県古代吉備文化財センターの見解と思われる。この鉄滓の推定年代について挑戦した。鉄滓の推定年代は○世紀○半の絶体年代でなく、調査報告書に記載された津寺編年(古前Ⅰ・古前Ⅱ・古前Ⅲ・古中Ⅰ・古中Ⅱ・古後Ⅰ・古後Ⅱ・古後Ⅲ)で現した。

 

私が一番注目したのが、角田Ⅱ区から出土した高塚遺跡で唯一の鍛冶炉で、その年代は中世とされている。図Z472は角田区の古代~中世の遺構図(赤は加筆)である。角田Ⅱ区の遺構は河道を除くと、鍛冶炉1・柱穴P102P106・土坑473しかない。柱穴はP102P103P104P105の方向が角田Ⅲ区にある掘立柱建物の方向と同じであることから中世の掘立柱建物の遺構があったと考える。その遺構が削平され、削平面より下にあつた一部の柱穴が残ったものと考えられる。中世の遺構が削平で消失しているにも関わらず、地上にあった直径30cm✕深さ5cmの鍛冶炉1が残っているのはおかしい。鍛冶炉1は古墳時代の遺構と考える。

 

Z472.角田区中世遺構.png

角田Ⅱ区の古墳時代の遺構図Z473に鉄滓が出土した竪穴住居をカラーで色付けした。私の判定で製錬滓は赤、精錬滓は青、鍛錬滓は緑、ガラス滓はピンク、分析されていないものは黄色とした。判定が製錬滓or精錬滓のように二つに分かれる場合は左右に色分けし、製鉄工程が異なる2点の鉄滓が出土している場合は上下に色分けした。河道など単独で出土した鉄滓は△で示した。また、炉跡のある住居は灰色とした。

 

前述の鍛冶炉1で記載した。ピンク色にしたのは、ガラス質滓が出土しているためである。鍛冶炉1の周辺に、鉄滓が出土した古墳時代の掘立柱建物があり、鍛冶炉1が古墳時代のものであることが明白である。調査報告書は鍛冶炉1を何故中世のものとしたか疑問が沸く。河道9から出土した角田Ⅲ区の中世時代とされている製煉滓、角田Ⅰ区の平安時代とされている鍛錬滓も古墳時代の鉄滓として図に記載した。

 

鍛冶炉1は径30cm前後、深さ5cm余りで、被熱の影響を受けた部分は暗赤茶色を呈し、径50cm前後、厚さ4cm前後の広がりが確認されている。高塚遺跡で住居跡以外の屋外にある鍛冶炉はこの炉だけで、鍛冶炉ということに違和感を感じる。出土した鉄滓の化学分析はされていないが、分析者は「赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用によるガラス質滓」として鍛錬鍛冶滓としている。私は鍛錬鍛冶滓の説明に納得していない。何故なら、私が5世紀代の製煉滓あるいは精錬滓として掲げた製鉄指標が1.0~0.75の範囲にある10点の鉄滓に対して、分析者はその8点を鍛錬鍛冶滓として、「鍛錬が高温で行われガラス化した鍛錬滓」「鉄素材の鍛接のための高熱作業時に粘土と反応して派生した鍛錬鍛冶滓」「鍛接の高温作業で排出された鍛錬鍛冶滓で、赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用」と説明されていた。しかし、その鍛錬滓の判定は間違っていることを前節で証明している。

 

Z469小丸遺跡製鉄炉.png私は河道9から出土した製煉滓と住166から出土した製煉滓or精錬滓はこの炉で生成したものであり、鍛冶炉1は製鉄炉であると考える。鍛冶炉1ガラス質滓は製煉時に鉄滓が炉床・炉壁の粘土と反応して出来たものであり、住163のガラス質滓も製煉で生成したものである。図469は古の製鉄遺跡かと騒がれた広島県の小丸遺跡の製鉄炉の復元想定図であるが、カーボンベットを除いたら、高塚遺跡の鍛冶炉の姿になる。製錬が開始された時期は、住166と住163の年代である古墳中期Ⅱの段階である。


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