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71-3.御物『法華義疏』は小野妹子が持ち帰った経典 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

明治11年に法隆寺から皇室に献上された御物の『法華義疏』四巻の巻子本は、『法隆寺東院資財帳』(761年)に記載されている、聖徳太子御製の『法華経疏』4巻・『維摩経疏』3巻・『勝曼経疏』1巻のうちの『法華経疏』4巻で、行信が「覓求奉納」したものと考える。

Z431.法華経.png
御物の『法華義疏』には、巻子本が作られた当時の表題と著者の署名が無く、第一巻の巻頭に別紙を張継いで「法華義疏第一」の表題が書かれてあり、その下に本文とは別筆で「此是大委国上宮王私集非海彼本」(これは日本の上宮王が創ったもので、海外から渡来したものではない)と書かれてある。また、本文の随所には本文と異なる人の手による書き直しがある。この『法華義疏』は、一般に聖徳太子自筆とされているが、7世紀前半の遺品であることについては研究者の間に異論がないが、聖徳太子の自筆であるか否かについては意見が分かれている。

 

中国敦煌出土の経本を研究した藤枝晃氏は、『法華義疏』の用紙が中国南朝隋系の黄褐色に染めた薄手麻紙であること、文字と文字の間の罫線がヘラで引かれてあり、敦煌・トルファンの隋代の巻子と同じように、隋代の巻子本の決まりを踏襲してあること、文字は職業写経生のそれであることが類推されることなどから、『法華義疏』は中国で書かれたものであって、聖徳太子の自筆ではないとしている。

 

『補闕記』には、「戊辰の年(推古16年:608年)9月15日、太子は大殿の戸を閉ざし、7日7夜誰も寄せ付けず、御膳も召さず籠られた。8日の朝、机の上に法華経があった。太子は『大隋國の僧は我が善知識なり。書を讀まずは君子と爲すに非ず』と口ずさんだ。太子が薨じた後、王子・山代大兄は日夜この經を禮拜した。癸卯の年(皇極2年:643年)10月23日の夜半に、この經が失せて分からなくなった。王子はいぶかみ憂いた。【今在る經は小野妹子の持たらせる所なり。事は太子傳に在り】。11月11日に蘇我入鹿等が軍を興し宮室を燒き滅ぼし、王子・王孫23王等が亡くなった。」とある。

 

『書紀』によれば、遣隋使として派遣された小野妹子が帰朝したのが推古16年4月である。『補闕記』はその年の9月に小野妹子が持ち帰った法華経の経典を聖徳太子が7日7夜かけて読みふけったとしている。また、『書紀』によれば、蘇我入鹿が斑鳩の山背大兄王等を急襲したのは、皇極2年11月1日である。山背大兄は4・5日間生駒山に逃れた後、斑鳩寺に帰り自決している。自決したのが11月11日と考えると、『補闕記』と『書紀』には全く齟齬は無い。これら2件については、『補闕記』は史実を記載しているように思える。

 

私は御物の四巻の『法華義疏』は、推古16年(戊辰:608年)4月に小野妹子が隋から持ち帰り、聖徳太子が9月15日から7日7夜誰も寄せ付けず、御膳も召さず読みふけった法華経の経典であると考える。そして、『法華義疏』にある手直しの文字は、聖徳太子の自筆であると思える。『補闕記』の「戊辰の9月15日、太子は大殿の戸を閉ざし、・・・・」の文章の前には「太子、慧慈法師に謂いて曰く、『法華經の中の此の句は字を脱せり。師の見る所は如何』と。法師答えて啓す、『他國の經もまた字の有ること無し』と。」とある。この文章こそ、聖徳太子が法華経の経典に手直ししたことを伝えている。

 

『法華義疏』には「これは日本の上宮王が創ったもので、海外から渡来したものではない」と書かれてある。わざわざ、こんなことを書いているのは胡散臭さを感じる。これは『法華義疏』を覓求奉納した法隆寺高僧の行信の仕業であると思える。行信は小野妹子が隋から持ち帰り、聖徳太子が手直し書き入れた法華経の経典を探し出し、第一巻の巻頭に別紙を張継いで「法華義疏第一」の表題と、「此是大委国上宮王私集非海彼本」を書き入れて、聖徳太子直筆の『法華義疏』であると見せかけて、上宮王院に奉納したと考える。


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