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71-2. 聖徳太子が著した『三経義疏』 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

我国の仏教の基盤を築いたのは聖徳太子であると言っても過言ではない。聖徳太子によって著されたとされるのが『三経義疏』(さんぎょうぎしょ) で、『法華経疏』『維摩経疏』『勝曼経疏』の三経の注釈書(義疏)である。聖徳太子真筆の草稿とされる『法華義疏』のみが残存しており、明治11年に法隆寺から皇室に献上され御物となっている。『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみが伝えられている。

 

『日本書紀』には、聖徳太子が推古天皇14年(606年)に『勝鬘経』・『法華経』を講じたという記事があるが、『三経義疏』を著した話は記載されていない。平安時代初期に成立した『上宮聖德太子傳補闕記』には、「聖徳太子は己巳の年(推古17年:609年)に勝鬘經疏を書き始め、辛未の年(推古19年:611年)に完了した。維摩經疏は癸酉の年(推古21年:613年)に完了し、法華經疏は乙亥の年(推古23年:615年)に完了した。」とある。『三経義疏』の成立年代を記載している史料は『補闕記』のみである。

 

『傳補闕記』は、『法王帝説』と同じ頃成立しているが、聖徳太子の行実を調使(太子の従者)・膳臣(太子妃の実家)の家記にもとづいて記載している。『補闕記』には神秘的な内容や説話が多く盛り込まれており、『書紀』『法王帝説』に比べ史料としては重要視されていない。ただ、聖徳太子が経典を注釈・講話したことについては「補闕(ほけつ)」という題名の通り、『書紀』『法王帝説』には無い史料があり、私には史実が書かれてあるように思える。

 

Z430.座像行信.png『法隆寺縁起資財帳』(747年)には、聖徳太子御製の『法華経疏』3部各4巻・『維摩経疏』1部3巻・『勝曼経疏』1巻があることを記載している。そして、『法隆寺東院資財帳』(761年)には、聖徳太子御製の『法華経疏』4巻・『維摩経疏』3巻・『勝曼経疏』1巻が記載されてある。『法隆寺東院資財帳』は、正式には『上宮王院縁起并資財帳』であり、上宮王院は平安時代に法隆寺に取り込まれ法隆寺東院となっている。上宮王院は法隆寺の高僧行信の尽力により、天平9年(737年)から11年かけて聖徳太子の斑鳩宮跡に造営されている。行信は天平13年(747年)に大僧都になっている。

 

『法隆寺縁起資財帳』には『法華経疏』3部各4巻と記載されているが、「3部各4巻」の表現から、写本が3部あるように感じられる。また、『法隆寺東院資財帳』に記載の『法華経疏』の添え書きには「正本」とあり、また行信が「覓求奉納」したとある。「覓求奉納」とは探し求めて発見し奉納したことを意味している。これらから、上宮王院が落成した後に、聖徳太子の『三経経疏』のが法隆寺から上宮王院に施入されたと思われるが、『法隆寺東院資財帳』に記載されていた『法華経疏』は、『法隆寺縁起資財帳』とは異なるものであると考える。


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