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71-4.聖徳太子勝鬘経講話の年は『補闕記』に軍配 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

『日本書紀』の推古14年(丙寅:606年)に「天皇は皇太子を招き、勝鬘経を講ぜしめられた。三日間かかって説き終えられた。この年皇太子はまた法華経を岡本宮で講じられた。天皇はたいそう喜んで、播磨の国の水田百町を皇太子におくられた。太子はこれを斑鳩寺(法隆寺)に納められた。」とある。

 

『法王帝説』『補闕記』には、「〇〇年の四月十五日、小治田天皇(推古天皇)、上宮王(聖徳太子)に請いて勝鬘経を講ぜしむ。その儀は僧の如し。」とある。〇〇年は干支で、『法王帝説』は「戊午」で推古6年(598年)にあたり、『補闕記』は「丁丑」で推古25年(617年)にあたる。『書紀』と『法王帝説』『補闕記』、それぞれ勝鬘経を講じた年月は異なるが、三日間かかったこと、天皇より播磨の国の水田を賜り法隆寺の地としたことは三者同じである。。勝鬘経はインド大乗仏教中期の経典で,王女の勝鬘夫人が悟りを説いた経であり、女帝の推古天皇は大いに興味を持たれたのであろう。

 

Z432.斑鳩寺.png兵庫県の西播磨地域に太子町がある。この地は「鵤荘(いかるがのしょう)」と呼ばれ、平安時代に法隆寺の荘園があり、斑鳩寺が建立されていた。聖徳太子が推古天皇に勝鬘経を講じた話は史実であった。聖徳太子が勝鬘経を講話した年月は、『法王帝説』が推古6年(598年)、『書紀』が推古14年(606年)、『補闕記』が推古25年(617年)である。どの書物が史実を伝えているのだろうか。

 

聖徳太子が勝鬘経を講話した年月で、『法王帝説』の推古6年(598年)が成り立つためには、高麗の僧恵慈あるいは百済の僧恵聡がが勝鬘経の経典を持ってきたことになる。『書紀』推古3年(595年)には、「高麗の僧恵慈が帰化した。皇太子はそれを師とされた。この年百済の恵聡が来た。この二人が仏教を広め、併せて三宝の棟梁となった。」とある。「三宝」とは仏(仏像)・法(経典)・僧(僧侶)のことである。

また、勝鬘経を講話の年が『書紀』の推古14年(606年)が成り立つためには、『隋書』倭国伝に記された開皇20年(600年)の第一回遣隋使で、勝鬘経の経典を持ち帰ったとしなければならない。そして、勝鬘経を講話の年が『補闕記』の推古25年(617年)が成り立つためには、勝鬘経を推古16年(戊辰:608年)4月に小野妹子が隋から持ち帰ったとしなければならない。

 

これらの解のカギを握るのが法華経であると考える。『書紀』と『法隆寺縁起資財帳』には、岡本宮で勝鬘経だけでなく法華経も講じられとある。『法王帝説』『補闕記』には法華経も講じられたという記載は無いが、史実は勝鬘経と法華経が聖徳太子により講じられたのであったと理解する。法華経の経典は推古16年(戊辰:608年)4月に小野妹子が隋から持ち帰ったとする『補闕記』の記述が史実であると考える。それならば、勝鬘経を講話の年は小野妹子の帰国の年以降で、『補闕記』の推古25年(617年)となってくる。


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