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67-12.天皇陵古墳の比定と築造年代 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

天皇陵の所在地は『日本書紀』『古事記』に記載されており、その所在地は両者がほとんど一致している。これらからすると、帝紀・旧辞が作られたであろう欽明朝に、伝承に基づいて陵墓の治定がなされたと考える。記紀記載の天皇陵の所在地は大まかにみると、大和・柳本古墳群から佐紀古墳群へ、そして古市・百舌鳥古墳群と移行しているが、それらは考古学の古墳群の変遷と一致しており、記紀が伝承に基づいて陵墓の地を記載していると言える。現在の天皇陵の治定は、その多くが江戸時代になされたもので、現在の考古学からすると、その治定に問題のある天皇陵もある。欽明天皇陵については、前章に記したように見瀬丸山古墳(墳長310m)と考える研究者が多い。見瀬丸山古墳の年代の決めては須恵器TK43(550〜579年)であり、欽明天皇崩御は571年であることより、欽明天皇陵(見瀬丸山古墳)の年代は570年とした。

 

継体天皇陵は『書紀』は藍野陵、『古事記』は三島の藍陵としており、大阪府茨木市にある大田茶臼山古墳(墳長226m)に治定されているが、須恵器のON46(440〜459年)が出土している。継体天皇の崩御は『書紀』の編年も、「縮900年表」も共に531年であり、大田茶臼山古墳の年代とかけ離れており、多くの研究者により高槻市にある今城塚古墳(墳長186m)であるとされている。今城塚古墳の年代の決め手は須恵器のTK10(520〜549年)で、継体天皇崩御531年と合っており、継体天皇陵(今城塚古墳)の年代は530年とする。

 

仲哀天皇陵は『書紀』は河内国の長野陵、『古事記』は河内国の恵賀の長江と記しており、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(墳長242m)に治定されている。古墳からは埴輪Ⅴ式が出土しており、埴輪Ⅳ式が出土した応神天皇陵・仁徳天皇陵よりも新しい古墳といえ齟齬がある。古市古墳群の最古の大型前方後円墳である津堂城山古墳(墳長208m)が相応しいという見解が多い。古墳年代は埴輪Ⅱ式(300〜359年)と三角板革綴短甲(370〜469年)から365年±5である。なお、近つ飛鳥博物館は津堂城山古墳の埴輪型式はⅢ式(360〜399年)の初め(Ⅲ-Ⅰ期)としており、年代の判定は合っている。仲哀天皇陵(津堂城山古墳)の年代は365年とする。

 

Z313.仁徳陵古墳.png天皇陵古墳は宮内庁の管理下にあって発掘調査されることはなく、古墳の年代を決める情報は少なく、墳丘や造出から出土する埴輪や須恵器が主体となる。仁徳天皇陵は『書紀』に陵地を河内の石津原(百舌鳥耳原)に定めたとあり、堺市大仙町にある大仙古墳(墳長476m)に治定されている。仁徳陵古墳は明治5年に風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し石室が発見され、長持形石棺・横矧板鋲留短甲・小札鋲留眉庇付冑が出土している。墳丘・周豪から出土したものには、円筒埴輪Ⅳ式・馬形埴輪がある。平成10年には仁徳陵古墳の東側造出から須恵器の大甕(ON46型式)が採取され、年代決定の決め手となり440年〜459年と判定している。

允恭天皇陵は『書紀』に河内の長野原陵、『古事記』は河内国の恵賀の長枝とあり、仲哀天皇陵の表記とほぼ同じで、藤井寺市の市野山古墳(墳長230m)に治定されている。古墳からはⅣ式の円筒埴輪の他に、人物埴輪・家形埴輪・盾形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪などの形象埴輪が出土し、また堤盛土内からTK208型式の須恵器が出土している。TK208型式の須恵器は仁徳陵古墳から出土したON46型式と同じ年代(440年〜459年)である。宋書倭国伝に記載された「倭の五王」では「讃」は仁徳天皇「済」は允恭天皇に比定されている。438年の「讃死し弟珍立つ」、462年の「済死す、世子興遣使貢す」からすると、仁徳天皇が歿して允恭天皇が歿するまでの間は25年間程度であることが分かる。なお、「縮900年表」では30年間である。これらから仁徳天皇陵(大仙古墳)の年代をON46型式の初めの440年、允恭天皇陵(市野山古墳)をTK208型式の終わりの460年と比定する。

 

応神天皇陵は『古事記』に河内の恵賀の裳伏崗にあるとあり、羽曳野市の誉田御廟山古墳(墳長415m)に治定されている。古墳からはⅣ式の円筒埴輪の他に、家形埴輪・草摺形埴輪・盾形埴輪・靫形埴輪・蓋形埴輪・馬形埴輪などの形象埴輪が出土している。『書紀』の雄略紀には誉田陵に埴輪の馬が立っていると記載している。応神陵古墳の年代は埴輪Ⅳ式(400〜469年)での最も遡る時期のものであるとされている。また、外堤外側の溝からTK73型式からON46型式くらいの須恵器が見つかっていることから、TK73型式(400〜419年)の年代と推測されている。「縮900年表」では仁徳天皇の治世は50年間であることを考慮して、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の年代を埴輪Ⅳ式の初めの400年度に比定する。

 

崇神天皇陵は『書紀』に山辺道上陵、『古事記』は山辺道の勾岡のほとりとあり天理市柳本町の行燈山古墳(墳長242m)に、景行天皇陵は『書紀』に山辺道上陵、『古事記』は山辺道のほとりとあり、天理市渋谷町の渋谷向山古墳(墳長300m)に治定されている。行燈山古墳・渋谷向山古墳の両古墳からは円筒埴輪Ⅱ式(300〜359年)が出土している。「縮900年表」では、崇神天皇が歿して景行天皇が歿するまでの間(垂仁天皇治世+景行天皇治世)は62年間である。これらより、崇神天皇陵(行燈山古墳)の年代を円筒埴輪Ⅱ式の初めの300年、景行天皇陵(渋谷向山古墳)の年代を円筒埴輪Ⅱ式の終わりの360年に比定する。


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