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67-11.古墳の年代が「縮900年表」の正当性を証明 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z312.箸墓古墳.png国立民俗歴史博物館は箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定し、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると確定した。箸墓古墳(墳長276m、全国11位)が古墳時代最初の大型前方後円墳とすると、最後の大型前方後円墳は奈良県橿原市にある見瀬(五条野)丸山古墳(墳長318m、全国6位)となる。見瀬丸山古墳は江戸時代には長らく天武・持統合葬陵とされていたが、新たに発見された資料により、天武・持統陵は野口王墓古墳(八角墳:東西58m)に治定され直され、見瀬丸山古墳は現在陵墓参考地となっている。見瀬丸山古墳を欽明天皇陵と考える研究者は多い。欽明天皇の陵墓は『書紀』に檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄(しのびごと)の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。

 

平成3年、見瀬丸山古墳の石室の内部の写真が新聞に公表された。これは近くに在住の人が偶然石室の中に入り、写真に撮ったものである。翌年に宮内庁書陵部による開口部の閉塞工事にあわせて簡単な実測調査が行われ、埋葬施設は自然石を用いた両袖式横穴石室で、石室長は横穴式石室としては最大の28.4mであり、石室には二つの石棺が安置されていることが確認された。なお、採集された須恵器片はいずれもTK43型式のものであった。見瀬丸山古墳は墳長・石室規模・二つの石棺や年代から欽明天皇の陵墓と考え、その年代をTK43型式より565年(550〜580年)とする。古墳時代最初の大型前方後円墳である箸墓古墳の築造の250年(240〜260年)から、古墳時代最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳の築造までに315年(250〜565年)の年月が経過している。

 

崇神10年は『書紀』の編年では紀元前87年になる。一方、欽明32年(571年)4月に欽明天皇が崩御し、5月に河内の古市で殯があり、8月に新羅が弔使を派遣してきて殯に哀悼を表し、9月に檜隈坂合陵に葬られたとある。『書紀』の編年に従えば、箸墓と檜隈坂合陵の間は658年間(BC87〜571年)である。考古学から見ると、箸墓古墳の築造から見瀬丸山古墳の築造までに315年の年月が経過しており、『書紀』の編年は崇神10年の箸墓築造から欽明32年の欽明天皇崩御までを343年(658-315)延長していることが分かる。

 

私は、『書紀』は900年歴史を延長しているとして「縮900年表」を作成した。その延長は2代から9代の欠史8代の天皇は全ての期間、その他の天皇は記事と記事の空白の年が4年以上の期間である。延長された期間は神武天皇が69年、欠史8代で484年、そして崇神天皇から欽明天皇までが347年である。天皇ごとの延長期間は、崇神45年・垂仁69年・景行29年・成務53年・仲哀5年・神功62年・応神16年・仁徳36年・允恭25年・継体7年である。箸墓の築造年代と欽明天皇陵(見瀬丸山古墳)の築造年代とを見ると、『書紀』の編年は崇神10年の箸墓築造から欽明32年の欽明天皇崩御までを343年延長していた。全く無関係な二つの計算方法から、ほぼ同じ答えを導き出した。箸墓・見瀬丸山古墳の考古学上の年代が、『書紀』は900年延長して編年していると云う「縮900年表」の正当性を証明している。古墳時代最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は260年(崇神10年)に築造され、古墳時代最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳は欽明天皇陵で570年に築造されたと比定する。


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