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67-13.崇神天皇陵(行燈山古墳)の年代が歴史を解明 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

「67-11.古墳の年代が「縮900年表」の正当性を証明」では、古墳時代最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は260年(崇神10年)に築造され、古墳時代最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳は欽明天皇陵で570年に築造されたと比定した。近つ飛鳥博物館の館長であられる白石太一郎氏の「畿内における大型古墳の編年」から読み取ると、箸墓古墳の年代は255年、見瀬丸山古墳の年代は570年である。前章では古墳の遺構・遺物による編年と「縮900年表」の付き合わせから、継体天皇陵(今城塚古墳)530年(520年)、允恭天皇陵(市野山古墳)460年(455年)、仁徳天皇陵(大仙古墳)440年(430年)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)400年(415年)、仲哀天皇陵(津堂城山古墳)365年(370年)、景行天皇陵(渋谷向山古墳)360年(355年)、崇神天皇陵(行燈山古墳)300年(330年)であると、天皇陵古墳の比定と築造年代の決定をおこなった。赤字は白石氏の編年である。

 

Z314.天皇陵古墳編年.png図Z314は横軸を「縮900年表」による天皇の崩御の年として、縦軸にその天皇陵古墳の年代をプロットしている。青丸が私の編年で、赤丸が白石氏の編年である。黒線は「縮900年表」による天皇の崩御の年と古墳年代が一致していることを示し、かつ古墳時代の最初の大型前方後円墳の箸墓古墳と最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳を結んだ線でもある。私の編年と白石氏の天皇陵の編年は、崇神天皇陵(行燈山古墳)以外はほぼ同じである。また、天皇陵古墳のプロットをみると仁徳陵古墳を中心として、それ以後の天皇陵古墳のプロットは黒線上にあり、それ以前の天皇陵古墳のプロットは青線(黒線の約20年上)にあることが分かる。

 

『日本書紀』『古事記』が記載する天皇の中で、実在したと考えられている最も古い天皇は崇神天皇である。崇神天皇の陵墓に治定されている行燈山古墳の年代について白石氏は、箸墓古墳の年代を285年前後(『古代を考える 古墳』白石太一郎、1989年)と考えていた頃も、また255年前後と考えられるようになった現在でも同じ330年前後である。箸墓古墳の年代が30年ほど繰り上げられたとき、行燈山古墳の年代を繰り上げられなかったのは、崇神天皇の没年は『古事記』が記載している「戊寅」として318年と考えるのが通説であること、『晋書』の泰始2年(266年)に倭の女王(壱与)が晋に朝献したことの両方が影響し、崇神天皇と壱与を同じ時代の人とする訳にはいかないと考えたと推察する。考古学といえども、実年代の決定には文献史学が影響を及ぼしている。崇神天皇陵(行燈山古墳)の年代が、古墳時代の歴史を解明する上でのキーポイントとなると思われる。


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