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65-7.韓国に存在する前方後円墳 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

『書紀』雄略23年の記事に「百済の文斤王が亡くなった。天皇は昆支王の五人の子の中で、末多王が若いのに聡明なのを見て、詔して内裏に呼ばれた。・・・その国の王とされ、兵器を与えられ、筑紫の国の兵士五百人を遣わして、国へ届けられた。これが東城王である。この年百済の貢物は、例年よりも勝っていた。筑紫の安致臣・馬飼臣らは舟軍を率いて高麗を討った。」とある。雄略23年の記事は挿入記事であり、「縮900年表」では『書紀』の編年の通りの479年で、雄略天皇(武)が「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号を与えられた翌年のことである。

 

『三国史記』によれば、百済は蓋鹵王21年(475年)に高句麗によって漢城(ソウル)が陥落した。蓋鹵王の子の文周が即位し、都を熊津(公州)移している。477年に文周王は重臣の解仇により殺害され、子の十三歳の三斤が位を継いだ。478年に解仇が反乱を起し、三斤王側の二千人の軍隊も勝てなかったが、五百人の精鋭な軍隊により解仇を撃ち殺すことが出来た。479年に三斤王が薨去し、文周王の弟の昆支の子である東城王が即位した。王は胆力が人よりまさり、弓が上手で百発百中であったとある。

 

『三国史記』は、478年に解仇が撃ち殺され、479年に三斤王が薨去したとしているが、史実は478年に解仇が三斤王を殺し、479年に解仇が五百人の精鋭な軍隊により撃ち殺されたと考える。五百人の精鋭な軍隊こそ、『書紀』雄略23年(479年)の記事にある「兵器を与えられて帰国した東城王と筑紫の国の兵士五百人」であったと思える。その後、倭国は百済の弱体化に乗じて「慕韓」の地を支配化に入れた。東城王は高句麗に対抗するためには倭国の後ろ盾が必要で、それを認めざるを得なかったということではないかと考える。

 

継体6年(519年)に、百済の使者が調を奉り、上表文で任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を欲しいと願った。哆唎の国守、穂積臣押山は「この4県は百済に連なっており、百済に賜って同国とすればこの地を保つためにこれに過るものはない。」と百済を援護している。大伴大連金村はこれらの意見に同調して天皇に奏上し、4県が百済に与えられている。これらからすると、雄略23年(479年)から継体6年(519年)の間、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県は倭国の支配下にあり、倭人の国守や官吏が赴任していたと考えられる。

 

Z261.Z262.韓国四県.jpg

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の比定地については諸説あるが、田中俊明氏は『古代の日本と伽耶』の中で、図461に示すように韓国南西部の全羅南道の栄山江流域に定めておられる。の栄山江流域には図462(ピンクは前方後円墳)に示すように13基の前方後円墳が存在する。1980年の発見当初は、韓国において日本の前方後円墳の起源になる古墳として注目されたこともあったが、埋葬施設が横穴式石室で、玄室は百済の方形で穹窿状(ドーム状)の天井とは異なり長方形で平天井であることから、倭国の前方後円墳の影響を受け造られたものであり、その築造年代は5世紀末から6世紀前半であるとされている。私の遺構・遺物の編年では、横穴式石室は470年からであり、倭国で横穴式石室が造られ出した時代に、韓国で造られたことになる。

 

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を倭国が支配下に置いた年代と、栄山江流域の前方後円墳の築造年代とが一致しており、前方後円墳に埋葬された被葬者は、4県に赴任していた倭人の国守や官吏と考えられる。栄山江流域の前方後円墳は、『書紀』が記す「任那四県割譲」が史実であったことを物語っている。


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