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63-9.「縮900年表」で「倭の五王」を解明 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。『宋書』は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。この「倭の五王」については、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まって、明治・大正・昭和の多数の学者・研究者が「魏志倭人伝」と同様『宋書』宋書倭国伝の解釈に頭を悩まし続けてきたが、まだ明確な「解」は見つかっていない。「エクセル作成の年表」が何の矛盾も無く通用するかが試される登竜門である。

 

「エクセル作成の年表」による「倭の五王」について検討する前に「エクセル作成の年表」を1ヶ所だけ、允恭元年444年を443年と手直しする。「エクセル作成の年表」の年代に従って『書紀』を読めば、442年1月に反正天皇が崩御したあと、群卿は反正天皇の同母弟であった稚子宿禰皇子(允恭天皇)に皇位に付くよう懇願したが、皇子は「国家を任されることは重大なことである。自分は病いの身で、とても堪えることは出来ない。」と承知しなかった。妃の忍坂大中媛命の懇願で皇位に付いたのが444年12月であり、443年は空位となっている。

 

稚子宿禰皇子の皇位辞退は胡散(うさん)臭さを感じる。そもそも、反正天皇が即位のあと何の記事もなく、在位5年で突然崩御されていること自体が不自然で、反正天皇が允恭天皇によるクーデターで亡くなった感じがする。それを隠すための美化が、稚子宿禰皇子の皇位辞退の物語であると想像する。反正・允恭天皇の父親である仁徳天皇も、皇位継承が美化されている。応神天皇は大鷦鷯尊(仁徳天皇)の弟・菟道稚郎子を寵愛し皇太子とした。応神天皇が崩御したあと、菟道稚郎子は「兄を越えて位をつぎ、天業を統べることは出来ない。兄は仁孝の徳もあり、私は不肖でとても及ばない。」と皇位を大鷦鷯尊に譲ろうとした。大鷦鷯尊は「先帝は明徳な人を選び皇太子に立てられた。私は不肖で、先帝の命に背いて、弟王の願いに従うことは出来ない。」と辞退し続けた。空位が3年経ち、菟道稚郎子は「兄の志が変らないことを知った。天下を煩わすのは忍びない。」と自殺している。これらは仁徳天皇のクーデターを隠すための美化された物語であると考える。

 

Z222.縮900年表.png仁徳天皇・允恭天皇の皇位継承についての美化された物語は、『書紀』の編纂者が行ったのではなく、伝承されていたものと思われる。反正天皇が崩御したのが442年1月で、同年の12月に允恭天皇が即位し、允恭元年は443年となる。即位が元年の前年にあることは、良くある事例である。この手直しした年表Z222を「縮900年表」と呼ぶ。

 

「縮900年表」と『宋書』倭国伝に記載された「倭の五王」と比較し、「讃」は仁徳天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇に比定した。仁徳天皇は在位の途中で朝貢を始めたのであるが、反正・允恭・安康天皇については、元年の年または翌年に朝貢している。しかし、雄略天皇は14年経っての朝貢となっている。武は上表文の中で「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳をしており、雄略元年の年代と矛盾しない。

 天皇  元年   倭王  朝貢の年    記載事項     

 仁徳 381年  讃  421年  倭王讃朝貢し叙綬を賜う

          讃  425年  讃、表を奉りて方物献ず

 履中 432年

 反正 438年  珍  438年  讃死し弟珍立つ。珍遣使貢献

 允恭 443年  済  443年  倭国王済、遣使貢献す

          済  451年  倭王済、号を安東大将軍に進む      

 安康 461年  興  462年  済死す。世子興。遣使貢献す

 雄略 464年  武  478年  興死し弟武立つ。武遣使上表   

 

系譜でみると、「済」と「興」、允恭天皇と安康天皇、両方とも親子で合っており、「興」と「武」、安康天皇と雄略天皇、両方とも兄弟と合っている。しかし、問題は「讃死し弟珍立つ」である。「縮900年表」で讃を仁徳天皇、珍を反正天皇としたとき、讃と珍の関係は親子であり、兄弟の関係にはない。これに関しては、私は次のように考える。438年反正天皇の使いが宋に朝貢して、「昨年、兄の前王(履中天皇)が亡くなり、弟(反正天皇)が王に即位した。倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王の称号を頂きたい」と要求した。宋は王(反正天皇)を「珍」と称し、「安東将軍倭国王」の称号を与えている。

 

宋からすれば、天子(皇帝)が倭国王を冊命するのだから、一度も朝貢しなかった履中天皇の存在は認知しておらず、兄の前王は讃と理解し、「倭王讃死し、弟珍立つ、珍遣使献ず」の文章が記録されたと考える。本来「子」と記載すべきところが「弟」となったのは、履中天皇が一度も宋に朝貢していなかったことに因る。江戸時代から現在までの300年間、「倭の五王」の比定が解決しないのは、「讃死し弟珍立つ」の文章のためであると言っても過言ではない。しかし、「縮900年表」が示す履中・反正・允恭・安康天皇の年代から、最難関のハードルをすんなりと越える答えを導き出すことが出来た。それにしても、珍・済・興の朝貢が反正・允恭・安康天皇の元年または翌年とする「縮900年表」の正確さは驚きである。


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