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63-10.『書紀』に書かれた宋への朝献 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「倭の五王」の時代、中国は南北朝の時代と言われ、南朝と北朝の二つに分かれていた。北朝は三国時代の魏の領地を支配し、南朝は呉・蜀の領地を支配していた。南朝は東晋(317~420年)を滅ぼした武帝が建国した宋(420~479年)から始まり、斉・梁・陳の国が起こり、その後隋(581~618年)が南北朝を統一している。文末に示す表Z223は、『書紀』の全ての記事の年代を「縮900年表」の年代に変換している。これをみると、宋の時代は仁徳天皇から雄略天皇の時代にあたる。Z224に示すように、「縮900年表」の天皇の元年・崩御の年は、『宋書』倭国伝・帝紀に記され記事と密接に関係している。『書紀』では宋は「呉」と呼ばれ、しばしば登場している。『宋書』に登場する「倭の五王」の記事が、『書紀』にどのように記載されているか、「縮900年表」の年代をもとに探ってみた。なお、『書紀』の記事の年代は、断らないかぎり「縮900年表」による年代である。

 

Z224.倭の五王.png『宋書』倭国伝では、倭王が最初に宋に朝貢した記事は、永初2年(421年)「倭王讃朝貢し叙綬を賜う」とある。一方『書紀』の仁徳58年(421年)の記事は「呉国・高麗国が朝貢した」とあり、呉国(宋)が文帝の即位(420年)に際して、高麗国と一緒に倭国に使者を派遣して、「宋に朝貢せよ」との上表書を持ってきたと考えることが出来る。そう考えると、仁徳天皇は倭国を訪れた宋の使者に付けて、朝貢の使者を派遣したことになる。『書紀』は強弱・正悪・主従を反対にしている場合があり、仁徳58年の記事は、「倭国が高麗国と一緒に呉国に朝貢した」ということの潤色であるのかも知れない。いずれにしても『書紀』は、『宋書』倭国伝永初2年(421年)の記事の通り、仁徳天皇(讃)が呉(宋)に朝貢したことを記載している。

 

『宋書』倭国伝の元嘉2年(425年)に「讃又遣司馬曹達 奉表献方物」とあり、『宋書』文帝紀の元嘉7年(430年)に「倭国王使いを遣わし方物を献ず」とある。『書紀』の応神37年(426年:306+120)には「阿知使主・都加使主を呉に遣して、縫工女を求めさせた。阿知使主らは高麗に渡って、呉に行こうと思ったが道が分らず、道を知っているものを高麗に求めた。高麗王は久礼波・久礼志の二人をつけて道案内させた。これによって呉に行くことが出来た。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた。」とあり、応神41年(430年:310+120)の記事には、阿知使主が呉の王から授かった四人の縫女を伴い筑紫に帰国したと記している。『宋書』の元嘉2年と元嘉7年の倭王讃の朝貢の記事と、『書紀』の応神37年と応神41年の阿知使主が呉に遣わされた記事はその年代がほぼ合っている。

 

応神37年の阿知使主が呉に渡った記事を120年繰り下げて426年のこととして、『宋書』倭国伝の元嘉2年(425年)と結びつけた学者はいる。これにより、「讃」が応神天皇であると主張する学者もいれば、この記事を仁徳天皇の時代にスライドさせ、「讃」が仁徳天皇とする考えに合わせた学者もいる。私は後者の考えであるが、恣意的に仁徳天皇の時代に合わせたのではない。表Z223に示すように、神功紀・応神紀にある百済・呉との関連記事を120年繰り下げて「縮900年表」に戻すと、自動的に応神37年(426年)と応神41年(430年)の記事が仁徳朝の記事であったことになり、仁徳天皇(讃)が始めて宋に朝貢した仁徳58年(421年)の記事の後に収まってくる。「縮900年表」の正確さがここにも現れている。

 

『宋書』順帝紀、昇明元年(477年)には「倭国使いを遣わし方物を献ず。」とあり、倭国伝の昇明2年(478年)には「倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す」とある。『書紀』は、雄略天皇の治世の雄略6年と雄略8年に身狭村主青らを呉に遣わされているが、雄略10年(473年)には、まだ築素に滞在している。それは『三国史記』新羅本紀の474年の記事に「高句麗王が百済を攻めた。百済王は救援を求めてきた。新羅王は救援しようとしたが、到着する前に百済の王都は陥落し、百済王も殺害された。」見られるように、高句麗が百済を攻めたこともあって、身狭村主青らは呉国には渡っていないようだ。そして、雄略12年(475年)に身狭村主青らを呉に派遣したとあり、雄略14年(477年)に身狭村主青らが、呉国の使いと共に帰国したとある。『宋書』倭国伝の昇明2年の武の上表文には「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳していることと、『書紀』が記す身狭村主青らの呉への派遣記事は、見事に一致している。

 

雄略12年に呉国に遣わされ、雄略14年に呉国から帰国した身狭村主青を、『宋書』順帝紀・倭国伝にある武王の使いと考える学者は多くいる。しかし、『書紀』の編年に従えば、雄略14年は470年で『宋書』倭国伝の昇明2年(478年)とは8年も異なっており、この説を肯定する大きな壁となっていた。しかし、「縮900年表」の年代に従えば、その壁も一挙に乗り越えることが出来る。『書紀』は900年延長されていた。その中で歴史(編年)が史実であった時代、安康天皇以降の天皇紀で、延長がなされていたのは、26代の継体紀のみで、その延長された年数は7年であった。この7年は雄略天皇が「武」、安康天皇が「興」、允恭天皇が「済」であることを確定したばかりか、雄略天皇より呉国に遣わされ身狭村主青が、雄略天皇(武)の上表文を携えて宋に朝献した使いであることを明らかにした。

 

『書紀』は時間軸を引き延ばしていたり、物語化していたり、誇張があったりして潤色されており、また後世に使われた語句を使用したりしていて、歴史書として信頼されていない。私は引き延ばされた時間軸を元に戻す作業を、エクセルを使用して行い、「縮900年表」を作成した。そして、この「縮900年表」で変換した『書紀』の記事の年代と、『宋書』倭国伝の記事の年代がピッタリと合致することを証明した。その正確さは、歴史・考古学者の考える編年をはるかに超えた精度であった。




Z223-1.年代変換表.pngZ223-2.年代変換表.png

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omachi

気分転換にご利用下さい。
WEB小説「北円堂の秘密」を知ってますか。
グーグルやスマホでヒットし、小一時間で読めます。
その1からラストまで無料です。
少し難解ですが歴史ミステリーとして面白いです。
北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。
読めば歴史探偵の気分を味わえます。
気が向いたらご一読下さいませ。
重複、既読ならご免なさい。

by omachi (2018-01-10 19:04) 

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