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63-6.『書紀』は挿入記事で編年を正当化している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までが歴史(編年)が延長された時代である。『書紀』は『魏志』倭人伝や『百済記』『百済新撰』『百済本記』から引用した記事を、延長された編年の中に挿入して、延長された編年が正確であるかのように偽装している。その典型が神功39年の「この年太歳己未、魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に倭の女王は・・・」記事である。エクセルSheet2のデータを見れば、神功39年は西暦239年であり、明帝の景初三年は239年である。『書紀』の編年と「魏志倭人伝」の年を一致させ、編年がさも正確であるかのように見せかけている。

 

『魏志』倭人伝を引用している記事は、神功39年のみならず神功40年に「魏志にいう、正始元年・・・」とあり、神功43年には「正始四年・・・」とある。神功40年と正始元年は240年、神功43年と正始四年は243年と一致させている。また、神功66年の記事には「晋の天子の言行を記した起居注に武帝の泰初二年十月、倭の女王が貢献したと記している。」とある。「起居注」は現存しないが、神功66年と泰初二年は両者共266年である。『書紀』は、倭国の女王が登場する「魏志倭人伝」「起居注」の記事を神功紀に挿入し、その女王があたかも神功皇后であるかのように見せかけて、延長した編年を正当化している。

 

神功55年の記事には「百済の肖古王が薨じた。」とある。神功55年はエクセルSheet2のデータを見れば255年である。現存する朝鮮最古の歴史書『三国史記』を見ると、肖古王が薨去したのは375年で、その差は120年である。神功64年の貴須王、神功65年の枕流王、応神3年の辰斯王、応神16年の阿花王、応神25年の直支王、これら百済王の薨去の年は、『書紀』の編年は『三国史記』に記載された百済王の薨去の年より120年遡らせている。『書紀』は干支が同じであることを隠れ蓑にして、延長した編年を正当化している。なお、百済王の名が無くとも肖古王の家来の登場する記事、『百済記』の引用記事も120年遡らせた挿入である。

 

雄略紀には『百済新撰』の引用記事、百済が高麗(高句麗)に滅ぼされた記事、文斤王が薨じて東城王立った記事があり、武烈紀には『百済新撰』の引用記事があり、継体紀には『百済本記』の引用記事、百済の武寧王が薨じ百済の聖明王が即位した記事がある。これらの記事の年代は、『書紀』と『三国史記』に差はない。これらの記事も『書紀』の編年を正当化するために、『百済新撰』『百済本記』に書かれた事柄を引用し、挿入した記事であると考える。

 

応神37年に「阿知使主を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主は高麗に渡り、高麗王から道案内人を得て、呉に行くことが出来た。呉の王は四人の縫女を与えた。」との記事があり、応神41年には「阿知使主が呉から筑紫についた。宗像大神に兄媛を奉った。これがいま筑紫国の御使君の先祖である。あと3人の縫女を連れて武庫に着いたとき、天皇が崩御されたので、大鷦鷯尊に奉った。」とある。

 

中国で呉の国といえば、三国時代に都を建業(南京)におき、江南の地を治めた呉(222~280年)がよく知られている。書紀の編年では応神37年は306年である。中国で306年頃の王朝は西晋(265~316年)で都は洛陽にあり、呉と呼ばれることはない。応神37年の記事も干支2廻り120年遡らせて挿入しされているとすれば、426年の事となる。南北朝の時代の宋は420年に建国し、都を建業においていた。阿知使主が朝貢した呉国は宋である。『宋書』倭国伝には「元嘉2年(425年)に讃が司馬曹達を遣わし、表を奉りて宝物を献ず.」とある。『書紀』は宋への朝貢を干支2廻り120年遡らせて挿入している。

 

阿知使主が訪れた高麗(高句麗)王は長寿王(413~491年)となる。そうすると、応神28年に「高麗王が使いを遣し、その上表文に高麗の王、日本国に教うとあったので、無礼であるとその表を破り棄てられた。」とある高麗王も長寿王であろう。応神28年(297年)を干支2廻り120年遡らせると417年のことになる。『三国史記』の長寿王元年(413年)に「晋に使者を派遣し、上表文を奉り、白馬を献上した。安帝は王を高句麗王・楽浪郡公に封じた。」とある。高句麗王の上表文に「日本国に教う」とあったのは、晋に朝貢しなさいということであったのだろう。応神28年の記事も挿入記事である。また、応神20年にある「倭漢直の先祖である阿知使主がその子の都使主、並びに十七県の自分のともがらを率いてやってきた。」の記事も挿入記事となる。

 

表Z218にこれらの挿入記事を示した。『書紀』はこれらの記事を延長された編年の中に挿入して、延長された編年がさも正確であるかのように偽装している。延長されていない歴史(編年)を見つけ出すためには、これらの記事を取り除かなければならない。エクセルSheet2のデータをコピーしてSheet4に貼り付ける。皇紀80年の綏靖天皇元年から皇紀563年の開化天皇崩御までを切り取りSheet5に貼り付ける。「欠史8代」が484年間であると確認できる。Sheet4を「皇紀」で並び替え、表Z218で「記事有」が「0」になっている記事については、Sheet4のH列「記事有」の「1」を「0」に変更する。これで『書紀』が延長している年数をあぶり出す準備が整った。

Z218.挿入記事.png

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