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63-5.欠史8代 の天皇は創作された天皇 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』は何故、神武天皇の建国を紀元前660年にしなければならなかったのだろうか。通説では、大和朝廷の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色がないように、日本書紀編纂時に脚色されたとされている。神武天皇に対応する中国の皇帝といえば、約550年にも及ぶ春秋・戦国時代に終止符を打ち、初の統一王朝「秦」を作り上げた秦の始皇帝であろう。秦の始皇帝の治世は紀元前221から210年である。中国の歴史に比べて遜色がないよう脚色するのに、神武天皇の建国を紀元前660年まで遡らせる必要はない。

 

Z216-3.日本書紀の編年.png神武天皇が建国した年が「辛酉」であることから、日本書紀の編者は、元来、年代の伝えていなかった日本の古伝を中国流に形を整えるとき、中国の漢代に流行した「辛酉の年ごとに、中でも21度目の辛酉の年に大いに天の命が改まる。」という思想に基づき、日本史上の大変革というべき神武天皇即位を、推古天皇9年(辛酉:601年)から数えて、1260年前の辛酉の年においたとする辛酉革命説が、明治時代の学者那珂通世氏によって唱えられた。それほどまでに考えて、編者が日本書紀に取り入れた辛酉革命説であるならば、大変革の起こるべき推古9年に、特別な事件が起こっていないのは何故だろうかと疑問が残る。

 

表Z216の中で、29代の欽明天皇を見ると、皇紀は1200年、西暦は540年、干支は庚申となっている。1200は干支の基本数字60で割り切れる数字で、庚申の翌年が辛酉の年にあたる。欽明天皇元年は、『書紀』編年の要となる年となっている。欽明紀の中で特記すべきことは、欽明13年に百済の聖明王から仏教が伝来されたことだ。『書紀』が記載する日本(倭国)の歴史の中で、仏教が伝来し興隆したことは大変革であったと言える。仏教が伝来した頃、仏教を起した釈迦の誕生(諸説あるが紀元前566年頃)が、千百年位前であると伝わっていたと考える。神武天皇は釈迦より昔に我が国を建国した立派な天皇であるとするために、神武元年を欽明元年の1200年前、紀元前660年とする編年が出来たと考える。

 

歴史(編年)が創作された時代の天皇は、皇紀80年の綏靖天皇元年から皇紀563年の開化天皇崩御までの484年間で、「欠史8代」と呼ばれている。なお、古事記にも綏靖天皇から開化天皇までの記載があり、記紀の編纂以前の帝紀・旧辞にも書かれていたと考えられる。帝紀・旧辞の成立について、津田左右吉氏は、古事記の旧辞を出典として考えられる物語の多くが、23代顕宗天皇の御世までであることを理由に、「それらからあまり遠くない時代、しかしその記憶がやや薄らぐくらいの欽明朝頃、6世紀の中頃には一通りまとまっていたのだろう。」と述べている。仏教が伝来した翌年の欽明14年の記事には、内臣を百済に遣わして、勅に「医博士、易博士、暦博士は当番制により交代させよ。」とある。帝紀・旧辞は欽明朝に来日していた百済の暦博士の指導の下に作成され、神武天皇の建国を釈迦誕生以前とする編年が出来上がったと思える。


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ひろたん

面白い記事をありがとうございます。
辛酉革命は、1260年説もありますが、1320年説もあります。
推古9年は、聖徳太子が斑鳩宮を造営した年。(1260年を採用の場合)
その60年後は、白村江の戦いへの出兵開始、斉明天皇崩御、中大兄皇子の称制開始の年になります。(1320年を採用の場合)
白村江の戦いで、日本は朝鮮半島への影響力が大幅に低下しましたので、革命的な出来事と思われます。
by ひろたん (2018-02-27 18:33) 

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