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57-11.崇仏の蘇我氏 VS 排仏の物部氏 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

仏教の受容に対して、欽明朝では蘇我稲目と物部尾輿が、敏達朝では蘇我馬子と物部守屋が対立した。大臣である蘇我氏と大連である物部氏が、仏教の受容で対立する中で、天皇はその賛否に右往左往する状況であった。しかし、敏達天皇が崩御し皇位を継いだ用明天皇は、母の堅塩媛が蘇我稲目の娘であったこともあってか、仏法を信じられて、用明2年(587年)4月に「三宝(仏・法・僧)に帰依したいと思うが、お前たち群臣も協議せよ。」と仰せになった。蘇我馬子大臣はそれに賛同したが、物部守屋大連と中臣勝海連は「国神に背いて、他神を敬うのか。」と反対した。守屋は群臣に命を狙われていると聞き、河内の渋川に帰り武装した。勝海も武装して守屋に従ったが、崇仏派の舎人に殺された。このような状況のなか、用明天皇は病気が重くなり崩御された。

蘇我馬子と物部守屋は崇仏と排仏の対立に加え、用明天皇の後継者選びでも対立することになった。守屋は穴穂部皇子(用明天皇異母弟)を天皇にしようとしたが、馬子が炊屋姫尊(敏達天皇皇后)を奉じて、佐伯連・土師連・的臣に詔して、「穴穂部皇子を殺せ」と命じ、穴穂部皇子は殺されてしまった。炊屋姫尊にとって穴穂部皇子は異母兄弟で、両者の母は姉妹であり親近者である。それにも関わらず「刺殺の詔」を発したのは、穴穂部皇子が敏達天皇の殯宮に居た炊屋姫尊を犯そうとしたことによるだけでなく、昔から抱いていた物部氏が憎いとの気持ちがあり、排仏派の物部守屋と手を組む穴穂部皇子が許せなかったのであろう。蘇我馬子と炊屋姫尊が強く結びついたのは、両者は幼馴染みであり、幼い頃から仏を敬う気持ちと物部氏を憎む気持ちを二人が共有していたからである。

馬子は諸皇子と群臣にもちかけ、共に軍兵を率いて守屋の家のある渋川に向かった。馬子に味方した皇子には、泊瀬部皇子(穴穂部皇子弟)・竹田皇子(推古天皇の子)・厩戸皇子(聖徳太子)がいる。守屋の軍勢は強豪で、皇子と群臣の軍は三度退却した。厩戸皇子は白膠木(ぬるで:ウルシ科落葉樹)を切り取って四天王像を作り、「敵に勝たせてくれたら寺塔を建立します。」と請願し、蘇我馬子は仏法の守護神に、「戦に勝たせてくれたら寺塔を建立し、三宝を広めます。」と請願して進撃し、守屋とその子を誅殺した。


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