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57-3.蘇我氏には百済人の血が流れている [57.蘇我氏の系譜と興亡]

私は門脇氏の蘇我満智・木満致・木劦満致が同一人物で、蘇我氏の出自が百済系渡来人説には組みしないが、蘇我満智と木満致の関係については注目に値すると考える。『日本書紀』は、応神25年の記事の後に「百済記によると、木満致は木羅斤資が新羅を討った時、その國の女を娶って生れた。その父の功を以って、任那を専らとした。我が國(百済)に来て、貴國(倭国)と往き来した。制を天朝(天皇)に承り、我が國(百済)の政を執った。権勢は盛んであったが、しかし、天朝(天皇)はその横暴をお聞きになって召された。」とある。

木満致の父・木羅斤資は、神功49年(369年)に、倭国の荒田別と鹿我別将軍が卓淳国に行き新羅を討とうとしたとき、百済の精兵を率いて参加した将軍である。倭国は百済の応援を得て新羅を打ち破り、任那7ヶ国を平定することが出来た。応神25年の記事と、神功49記事の記事から、木満致は370年ころに生まれ、任那で育ち、百済に行って官史に登用され、倭国を往き来し、420年に腆支王(直支王)が薨じて久尓辛王(久爾辛王)が即位したとき、50歳で国政を執ったと思われる。木満致は任那で育ったとき日本語を覚えたと想像する。

応神3年(392年)の記事には「百濟の辰斯王が立って、貴国の天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰を遣わして、その礼のないことを叱責した。それによって、百濟国は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花を王に立て帰国した。」とある。『三国史記』では、辰斯王8年(392年)「十月、王は狗原で田猟していたが、十日たっても帰ってこなかった。十一月王が狗原の行宮で薨去した。」とある。辰斯王は狗原で暗殺されたのかも知れない。百済は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の接待役として、日本語の喋れる官吏・木満致を付けたと考える。木満致の22歳の頃である。木満致と蘇我石川宿禰は面識が出来たのである。

『日本書紀』応神8年(397年)に「百濟記に云う 阿花王が立って貴國(倭国)に無礼をした。それで、わが枕彌多禮・峴南・支侵・谷那・東韓の地を奪われた。このため、王子・直支を天朝(天皇)に遣わし、先王の好を修交した。」とある。『三国史記』阿華王(阿花王)6年(397年)には、「王は倭国と好を結び、太子の腆支(直支)を人質とした。」とある。397年に腆支(直支)が人質として倭国に来たことは、『書紀』と『三国史記』は一致している。

また、応神16年(405年)に「百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王を呼んで、『国に帰って位につきなさい。』と仰せられ、東漢の地を賜わり遣わされた。」とある。『三国史記』では、阿華王(阿花王)が薨去したのは405年であり、『書紀』と年代は一致している。直支王が倭国に人質として滞在した397年(仁徳15年)から、百済に帰国した405年(仁徳23年)の8年間、木満致は直支王の付き人として倭国に滞在したと考える。『百済記』にある「倭国を往き来した」とはこの事を指すのであろう。木満致が27歳から35歳の頃である。

397年(仁徳15年)から8年間、木満致が直支王の付き人として倭国に滞在していたとき、百済で世話になった蘇我石川宿禰は、木満致を自らの館に招待したと想像する。そのようなことが幾度と重なるなかで、木満致は蘇我石川宿禰の娘と恋仲となり子供が生まれ、名を木満致に因んで蘇我満智と名付けられた。405年(仁徳23年)に、阿花王が薨じため直支王は急遽帰国することになった。木満致は直支王に従って妻子を倭国に残し帰国した。蘇我満智は祖父・蘇我石川宿禰のもとで育ったと想像する。

百済に帰国した木満致は直支王のもとで、直支王の片腕として国政に参画した。416年に腆支王(直支王)が東晋の安帝から鎮東将軍に冊命されたときも、木満致は関わっていた。420年(仁徳38年)、直支王が薨じて、年若き久爾辛が王となってからは、木満致は国政を執った。木満致の行う制度や施策は倭国に倣うものが多く、他の官史から評判悪く、横暴であるとか、王の母と通じているとか、あらぬ噂を流され、窮地に立たされていた。

その頃、仁徳天皇は中国の王朝と国交を開くことを模索していた。『日本書紀』応神28年の記事には「高麗(高句麗)の王が使いを送って朝貢してきた。その上表文には『高麗の王、日本国に教える。』とあった。」とある。『書紀』の編年を干支2廻り120年下らせると、417年(仁徳35年)のことで、「日本国に教える。」とは「東晋に朝貢しなさい。」ということであると考える。しかし、東晋の政権は混沌としており、418年には強大な権力を得た劉裕が安帝を殺してその弟の恭帝を擁立した。そして420年、劉裕は恭帝から禅譲を受けて宋朝が開かれ、東晋は滅亡している。

420年(仁徳38年)、年若き久爾辛の後見人として国政を執った木満致が、四面楚歌の状況にあることを知った仁徳天皇は、中国の情勢を知るために、彼を召し挙げることにした。木満致も妻子のいる倭国にいくことに拘りはなかった。木満致は直支王12年(416年)に、東晋の安帝から使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王の冊命を受けたときの経験を持っている。木満致は仁徳天皇の外交顧問として活躍することになった。木満致50歳、蘇我満智22歳±3歳の頃である。『宋書』倭国伝には、永初二年(421年)に倭王・讃が朝貢し叙授を賜った。太祖の元嘉2年(425年)に、讃が司馬曹達を遣わして方物を献ずとある。『日本書紀』応神37年(426年:仁徳44年)の記事には「阿知使主・都加使主を呉に遣わした。」とある。421年(仁徳31年)の朝貢には、木満致が使者として遣わされたのかも知れない。木満致の尽力を得て、仁徳天皇は宋王朝に朝貢することが出来た。

蘇我満智宿禰履中2年(433年)に、平群木菟宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主らと共に国事を執っている。蘇我満智宿禰が35歳±3歳の頃であった。蘇我満智の息子の蘇我韓子宿禰が登場するのは、雄略9年(472年)で、この年韓子宿禰は新羅討伐に行き、同僚と諍いを起こし、討たれてかの地で亡くなっている。韓子宿禰の年齢を30歳から40歳とすると、蘇我満智が30歳から40歳の時に生まれた子となり、蘇我満智と蘇我韓子の親子関係は成り立つ。蘇我石川宿禰の娘と百済の官吏・木満致の子が、蘇我満智であるとすると、門脇禎二氏が注目した満致蘇我満智の関係が解けてくる。蘇我満智の息子の韓子と命名されているのも、祖父・木満致から来たもと理解できる。蘇我氏には、百済の官吏・木満致の血が流れている。


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