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57-4.蘇我稲目は蘇我氏中興の祖 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

『新撰姓氏禄』には蘇我氏を始祖と仰ぐ8氏族があるが、その内の4氏族(田中・小墾田・岸田・久米)が始祖を「武内宿祢五世孫稲目宿祢」とし、2氏族(桜井・箭口)が「宗我石川宿祢四世孫稲目宿祢」としており、蘇我稲目を蘇我氏の始祖、中興の祖としている。『日本書紀』に蘇我稲目が初めて登場するのは、宣化元年(536年)で、「もとどおり大伴金村と物部麁鹿火を大連とした。また蘇我稻目宿禰を大臣とし、阿倍大麻呂臣を大夫とした。」とある。

欽明元年(540年)に蘇我稻目宿禰は大臣を拝命している。また、稲目の娘の堅塩媛と子姉君は欽明天皇の妃となり、堅塩媛は七男六女を産み、第一子が橘豊日尊(用明天皇)、第四子が豊御食炊屋姫尊(推古天皇)である。堅塩媛の妹・子姉君は四男一女を産み、第三子が穴穂部皇女(用明天皇皇后、聖徳太子の母)、第五子が泊瀬部皇子(崇峻天皇)である。蘇我稲目が蘇我氏の中興の祖とされているのは、稲目が蘇我氏としては初めて大臣の位に付き、蘇我氏が代々大臣を世襲する道を開いたこと、娘の堅塩媛と子姉君を欽明天皇の妃とし、娘らが後の用明天皇・崇峻天皇・推古天皇を産み、蘇我氏が天皇家と強い姻戚関係を作った事によっている。
X124.天皇家と蘇我氏.png

蘇我稻目の祖父・韓子は新羅討伐に派遣された最中に、同僚と諍いを起こして、討たれて亡くなっている。また、父親の高麗は記紀には一切登場していない。蘇我稻目は親の七光りがあったわけではないのに、宣化元年(536年)唐突に大臣を拝命している。稲目は安閑朝(534~535年)に功績を挙げたため出世したと考える。『書紀』の安閑紀のほとんどは、「屯倉」の記事で占められている。安閑元年には、不祥事や罪の贖罪として屯倉を献上した話、皇后や妃の為に屯倉をたてた話、天皇の求めに応じて屯倉を献上した話、争いの調停の代償として屯倉を献上した話など、全部で10屯倉(上総・武蔵・摂津三島・摂津・倭・河内・安芸)についての記載がある。また、安閑2年には、26屯倉(上ヶ野・駿河・尾張・近江・紀・丹波・播磨・備後・婀娜・阿波・筑紫・豊・火)を置いたとある。

『日本書紀』を「屯倉」で検索すると、安閑朝36ヶ所、欽明朝6ヶ所、顕宗朝・宣化朝5ヶ所と、安閑天皇の在位が2年間であるにも関わらず圧倒的に多いことが分る。安閑紀に集中的に屯倉記事が記載されている点については,津田左右吉以来,『日本書紀』編纂時に作為的に集めたとの見解が有力であるとされているが,私はそうは思わない。継体天皇の時代に上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を百済に割譲し、南加羅・㖨己呑国・卓淳の三ヶ国を新羅に奪われると、任那の官家からの調(税収入)が減り、大和王権の財政が悪化した。安閑天皇の時代には、大和王権の財政にとって、屯倉を増やすことは必然であった。

平安初期に成立した『古語拾遺』雄略天皇の段には、蘇我稲目の曽祖父・蘇我満智は、三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校(管理監督)し、秦氏をして財物の出納を、東・西文氏をして帳簿の勘録を、秦・漢二氏をして内蔵・大蔵の鑰(かぎ)を司らせたとある。蘇我氏は代々、三蔵や屯倉をはじめとする王権の財政に関わる任務に着いていたと思われる。蘇我稻目宿禰大臣は、宣化3年に尾張連を遣わして尾張國の屯倉の籾を運び、欽明16年には穗積磐弓臣等と、吉備五郡に白猪屯倉を置き、欽明17年には備前兒嶋郡に屯倉おき、また紀國に置海部の屯倉を置き、倭國の高市郡に、韓人を田部(屯倉の地を耕作する農民)とした大身狹の屯倉と高麗人を田部とした小身狹の屯倉を置いている。「身狹」は橿原市見瀬町に比定されている。これらからすると、蘇我稲目は安閑朝においても、屯倉の設置に貢献したと考える。


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