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57-2.蘇我氏の出自、百済系渡来人説を斬る [57.蘇我氏の系譜と興亡]

蘇我氏の出自が百済系渡来人であるとの説は、1971年に門脇禎二氏により提唱された。門脇氏は『日本書紀』の応神25年(414年)の「百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。王は年が若かったので、木満致が国政を執った。王の母と通じて無礼が多かった。天皇はこれを聞いておよびになった。」の記事にある「木満致」と、『三国史記』百済蓋鹵王21年(475年)の「高句麗に王都漢城を攻撃されたとき、蓋鹵王は王子文周に避難を命じ、文周は木劦満致・祖彌桀取とともに南に行った。」の記事にある「南に行った」を倭国とし、「木劦満致」を木満致と同一人物として、「蘇我満智満致=木劦満致」としている。

『日本書紀』の応神25年は、書紀の編年通りに計算すると294年である。私は「縮900年表」で、百済の王の記載がある場合は干支2廻り120年下らせ414年(仁徳32年)としている。『三国史記』によると、腆支王(直支王)が薨じたのは420年であり、6年の差はあるが年代的には合っている。門脇氏は干支3廻り180年下らせ474年とし、「木満致」と「木劦満致」が同一人物としている。応神25年を干支3廻り180年下らせるのであれば、「直支王が薨じた」のも474年のことになってしまう。

『宋書』百済伝義熙12年(416年)の記事に「以百濟王餘、為使持節都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。」とある。また、大宰府天満宮所蔵の国宝『翰苑』(唐時代編纂)には、義熙12年に「以百濟王餘、為使持節督都百濟諸軍事、鎮東將軍。」とある。そして、『三国史記』支王12年(416年)に、「東晋の安帝が使者を派遣し、王を冊命して使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とした。」とある。416年に鎮東将軍に冊命された百済王は、『宋書』では「」、『翰苑』では「」、『三国史記』では、「支王」となっており、腆支王(直支王)であることに間違いないだろう。

『三国史記』には、「木満致」についての記載はないが、応神25年の記事の「百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。」の部分は干支2廻り120年下らせ、「木満致が国政を執った。」の部分は干支3廻り180年下らせて解釈することは、あまりにも飛躍があるかと思われる。門脇氏の説を支持する学者の中には、雄略記に登場すべき人物が、応神記に混入された指摘とする人もいるが、ご都合主義と言わざるをえない。門脇氏の説は、注目を浴び一時期学会を席巻したが、現在では完全に否定されている。このような説が一時期であれ注目を浴び、学会を席巻したということは、蘇我氏の出自について、未解決のままであるということであろう。


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