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56-3.円大臣は玉田宿禰の息子か? [56.葛城氏の系譜と興亡]

Z113に葛城氏の系譜を示した。この系譜では、円(つぶら)大臣は玉田宿禰の息子になっている。『日本書紀』には円大臣と玉田宿禰の関係については記載していない。『公卿補任』では円大臣は玉田宿禰の子とするが、『紀氏家牒』には「葛城葦田宿禰の児、履中・反正・允恭・安康の四朝に仕え奉る」と、円大臣は葦田宿禰の子であることを示唆した記述がある。円大臣は玉田宿禰の子か、それとも葦田宿禰の子であるか検証する。

Z113.葛城氏の系譜.png

円大臣については履中2年(433年)の記事には、「都を磐余に造った。この時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執った。」とある。また、雄略前紀の記事には、「安康3年(463年)、父の仇に報いるために安康天皇を殺害した眉輪王を、円大臣が自宅にかくまい、雄略天皇に葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上して許しを乞うたが、許されず焼き殺された。」と記載している。円大臣が大臣に就任した時の記事はないが、安康元年(461年)に就任していたと推定する。


Z115.円大臣の誕生年.png433年に円大使主が国事を執った時の年齢を基にして、461年の円大臣の大臣就任時の年齢を求めZ115に示した。国事を担うのは23歳から63歳まで仮定に照らし合わせると、433年(履中2年)のときの円大使主の年齢は23歳から35歳で、円大臣の誕生は399年から411年であったことが分る。葛城円大臣の娘・韓姫は雄略元年(464年)に雄略天皇の妃となっている。その時の韓媛の年齢が25歳(±5年)とすると、韓媛の誕生は440年(±5年)となる。これを基に、韓媛の誕生の時の円大臣の年齢を求めた。これらよりZ115の下段に示すように、円大臣の年齢は27歳から42歳で整合性がとれている。また、円大臣と葛城襲津彦との関係は、祖父あるいは曽祖父の関係にあると言える。

Z116.円大臣と玉田宿禰.png前節のZ114で示したように、玉田宿禰の誕生の年は386年から426年の範囲にある。また、Z115で示したように、円大臣の誕生は399年から411年である。Z116に示すように、玉田宿禰の誕生が388年(386~389)、円大臣の誕生が410年(
409~411)である場合、玉田宿禰が円大臣の父親であることが
成り立つ。

円大臣は433年(履中2年)に24歳位で国政を執る大使主に命ぜられ、安康元年(461年)に52歳で大臣に就任し、安康3年(463年)に眉輪王を匿い焼死している。一方、玉田宿禰は448年(允恭5年)に61歳で反正天皇の殯宮の大夫を命ぜられたが、殯の任務を怠り葛城で酒宴をしていたことが、葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。天皇に召喚された玉田宿禰は衣の下に鎧を着けて参上しので、天皇の兵に宿禰を討伐されている。448年に玉田宿禰が天皇の使いを殺したため討伐されたにもかかわらず、その息子の円大臣が461年に最高の位の大臣に出世するのにも疑問がある。また、息子の円大臣が24歳で大使主として国政を執った時、父の玉田宿禰は働き盛りの46歳であり、官吏への登用からすれば親子が逆転しているのもおかしい。『公卿補任』では円大臣は玉田宿禰の子とするが、それは間違いであると考える。


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