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56-2.玉田宿禰は葛城襲津彦の子か、孫か? [56.葛城氏の系譜と興亡]

葛城氏の系譜は、『日本書紀』・『古事記』・『公卿補任』・『紀氏家牒』にある武内宿禰・葛城襲津彦・葦田宿禰・玉田宿禰・円大臣・蟻臣などの、断片的な史料から、Z113に示すような系譜が復元されている。なお、『公卿補任』は、卿の氏名・就任年月・官位などを年代順に記した職員録で、平安時代初期の弘仁2年(811年)に成立した『歴運記(公卿記)』が基となっている。また、『紀氏家牒』は紀氏の古伝承をまとめた記録で、由来は平安初期でないかと考えられており、現在は逸文しか残っていない。葛城氏の系譜が完璧かと言えばそうでもないらしい。それは、前記4つの資料には、「玉田宿禰は葛城襲津彦の子か、それとも孫か」、「円大臣は玉田宿禰の子か、それとも葦田宿禰の子か」という、互いに矛盾する記述が含まれているからだ。これら葛城氏の系譜が正しいか検証してみた。

Z113.葛城氏の系譜.png

『日本書紀』に玉田宿禰が始めて登場するのは、允恭年(448年)の記事で、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯の任務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。天皇に召喚された玉田宿禰は衣の下に鎧を着けて参上した。それを知った天皇は兵に討たせようとしたが宿禰は家に逃げ帰った。天皇の兵は家を取り囲み、宿禰を捕え殺した。」とあり、「葛城襲津彦の孫の玉田宿禰」とある。一方、雄略紀7年には、「吉備上道臣田狭の妻・稚媛は美人の誉れ高く、雄略天皇に夫を国司として任那に飛ばされ、召されて妃となり星川皇子を産んだ。別本によると、田狭臣の妻は名を毛媛といい、葛城襲津彦の子・玉田宿禰の娘である。天皇容姿が美しいと聞いて、夫を殺して自らお召しになった。」とあり、「葛城襲津彦の子、玉田宿禰」とある。『公卿補任』も、玉田宿禰は葛城襲津彦の子としている。『日本書紀』・『公卿補任』の文章から、「玉田宿禰は葛城襲津彦の子か、それとも孫か」を検証することは出来ない。

Z114.襲津彦と玉田宿禰.png玉田宿禰は允恭5年(448年)に反正天皇の殯宮の大夫(殯主)を命ぜられている。国政を担うのは23歳から63歳までとの仮定を適用して、玉田宿禰の誕生の年を求めた。Z114に示すように、玉田宿禰の誕生の年は386年以降であることが分る。襲津彦が最後に新羅征伐に出たのは382年であり、この年以降に子供が生まれることはない。これらからすると、玉田宿禰は葛城襲津彦の子でないことは明白である。また、襲津彦の誕生は326年から329年と比定しており、玉田宿禰の誕生の年に襲津彦が何歳であったかを計算した。それらからすると、襲津彦は58歳から101歳であり、玉田宿禰は葛城襲津彦の孫であることが分る。

雄略紀7年には「別本云」として、吉備上道臣田狭の妻・稚媛が玉田宿禰の娘であるかのように書いている。しかし、雄略天皇が亡くなった雄略23年(486年)に、星川皇子が母・吉備稚媛にそそのかされて謀反を起こし、吉備上道臣が星川皇子を救おうと軍船40艘を出している。吉備稚媛が吉備上道臣の娘でなければ、吉備上道臣が星川皇子を救おうと軍事行動を起こすことは有り得ない。吉備稚媛は吉備上道臣の娘であり、吉備上道臣田狭が入婿で、「稚媛=毛媛」でないことが分る。そうなると別本の「葛城襲彦の子・玉田宿禰」は怪しくなってきて、前述の検証が正しいことが分る。玉田宿禰は葛城襲津彦の孫とする、『日本書紀』允恭5年の記事が正しく、玉田宿禰は葛城襲津彦の子とする、雄略7年の割注に記す別本や『公卿補任』は間違っていると言える。


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