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56-4.円大臣は葦田宿禰の息子 [56.葛城氏の系譜と興亡]

Z117.葦田宿禰は円大臣の父.png

『紀氏家牒』には「葛城葦田宿禰の児、履中・反正・允恭・安康の四朝に仕え奉る」と、円大臣は葦田宿禰の子であることを示唆した記述がある。円大臣は葦田宿禰の子であるかを検証する。葛城襲津彦の誕生は326年から329年であることから、男性に子供が生まれる時の年齢は18歳から53歳までとの条件を当てはめると、葦田宿禰の誕生は概ね345年から380年の間となる。円大臣の誕生の年は、399年から411年であり、円大臣の誕生の年に葦田宿禰の年齢を求めZ117に示した。葦田宿禰の誕生が360年から375年であれば、『紀氏家牒』に書かれてあるように、葦田宿禰と円大臣の親子関係が成り立つ。

Z118.葦田宿禰の娘・黒姫.png葦田宿禰の娘・黒姫は437年(履中元年)に履中天皇の皇妃となっている。履中天皇の年齢は47歳であるので、黒姫を娶ったのは皇太子の時代であったのかも知れない。履中天皇(去来穂別尊)の年齢から黒姫を娶った年を算出し、黒姫の嫁いだ年齢を25歳(±5歳)として、黒媛誕生の年の、葦田宿禰の年齢を求めZ118に示した。去来穂別尊が30歳以降に黒媛を娶っていたならば、葦田宿禰と黒媛の親子関係は成り立つ。

『紀氏家牒』にあるように、円大臣が葦田宿禰の息子であるとして、葛城氏の系譜をZ119に示した。葛城襲津彦(誕生326~329年)の息子・葦田宿禰(誕生360~375年)は、父・襲津彦が32歳から50歳のときの子供である。葦田宿禰の息子・円大臣(誕生399~411年)は、父が25歳から52歳のときの子供である。円大使主は23歳から35歳の433年(履中2年)に、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連と共に国事を執った。円大臣は履中天皇・允恭天皇・安康天皇に仕えたが、463年(安康3年)に父の仇に報いるために安康天皇を殺害した眉輪王を自宅にかくまい、大泊瀬皇子(雄略天皇)に葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上して許しを乞うたが、許されず焼き殺された。円大臣の娘・韓媛(誕生440年±5年)で、父が27歳から42歳の時に生まれた子供である。464年(雄略元年)に25歳(±5歳)で雄略天皇の妃となり、後の清寧天皇を生んだ。

Z119.葛城系譜私案.png

葦田宿禰の娘・黒姫(誕生391から408年)は、父が22歳から49歳の時の子供である。履中天皇が皇太子の時代に結婚し、履中天皇が即位された408年に皇后となった。黒姫が生んだ市辺押磐皇子は、母の兄弟の蟻臣の娘・荑媛を娶り、億計(仁賢天皇)と弘計(顕宗天皇)の兄弟を生んだ。安康天皇は市辺押磐皇子に皇位を託そうとされていた。それを恨んだ大泊瀬皇子(雄略天皇)に463年(安康3年)にだまし討ちに合い殺された。億計と弘計は難を逃れて明石の縮見屯倉の首に身分を隠して仕えていた。488年(清寧2年)播磨に遣わされた伊与来目部小楯は、弘計と億計に身分をあかされた。跡継ぎのなかった清寧天皇は、億計と弘計とを皇子として迎えた。清寧天皇が亡くなり弟の弘計が顕宗天皇となり、その跡兄の億計が仁賢天皇となった。Z119に示す葛城襲津彦を始祖とする系譜が、何の齟齬もなく説明できる。


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