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54-2.氏姓制度は雄略天皇の時代に出来上がった [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

ヤマト王権(応神天皇以前)は連合国家であり、大和王権(仁徳天皇以後)は君主(天皇)を頂点とする統一国家である。倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制は「氏制度」である。氏姓制度と言っても「ウジとカバネ」制度と「ウジのカバネ」制度とは大きく違う。後者は天武13年の八色姓(やくさのかばね)の詔であり、既に存在していた「ウジのカバネ」について、新たなカバネを設け身分秩序を再構築したものであった。前者の「ウジとカバネ」がどのように成立してきたかを明らかにしてみたい。

天武13年(684年)の八色姓制度で第一位の真人の旧姓は公(13氏族)である。公のカバネを持つ氏族の多くは、継体天皇と宣化天皇の皇子の後裔である。第二位の朝臣の旧姓は君(11)・臣(39)・連(2)、第三位の宿禰の旧姓は臣(1)・連(49)であった。倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制で上位のカバネと目されていた君・臣・連のカバネをもった氏族の内、『日本書紀』の欽明朝以前にウジ・カバネを冠した氏族について表84に示した。緑色の氏族は八色姓で朝臣を賜った氏族、青色は宿禰を賜った氏族である。●は「ウジ+カバネ+名前」、■は「ウジ+カバネ」、
は「名前+カバネ」、は「ウジ」のみが記載されたものである。はその氏族の先祖(遠祖・始祖・祖)が記載されている天皇紀で、はその氏族の先祖が確認できる天皇紀を示している。なお、君・臣・連のカバネを持つ氏族であっても、『日本書紀』に一代の天皇紀にしか記載のない氏族は省いている。

Z84.ウジ・カバネと氏族.png


『日本書紀』允恭4年(447年)の記事には、「上古の治政では姓名の錯はなかった。即位から4年になるが、上下相争って人民は安穏でない。あるいは
誤って自分の姓を失い、あるいは高い氏を自認している。治政の治まらないのはこのためである。どうして、この錯をたださずにいられようか。」、「群卿・百官および諸国の国造たち皆それぞれ、あるいは帝皇の裔だとか、あるいは天降の裔と言う。永い歳月を経て、一氏が繁栄して万姓となり、その真偽を確かめるのは困難である。諸々の氏姓の人どもは、沐浴斎戒して盟神探湯をせよ。」、「諸人はそれぞれ木綿のたすき着けて、釜に赴いて探湯をした。真実であるものは何事もなく、真実でないものは皆傷ついた。これによって、故意に錯の者はおじ気づいて進むことが出来なかった。これ以後、氏姓は自然に定まって、詐(偽)る人はなくなった。」とある。

天武13年の八色姓の制度より前の天皇紀に記載された「賜姓」や「改本姓」を見ると、「姓」とはウジとカバネの合わさったものであり、「姓」を「氏姓」と解釈して読む。「錯」と「詐」は同じで「偽り」と読んだ。黄色の部分の原文は「誤失己姓」で「誤失己姓」として「誤って自分の姓を失う」と多くの解説書が現代語訳しているが、これでは探湯
(くかたち)を行った真意が通じない。私は「誤己姓」として「自分の姓の誤りを失う」、すなわち「自分の姓が間違っているのが分からなくなる」と解釈した。

允恭天皇より以前について見ると、「ウジとカバネ」を持たない先祖が居たことを表す
の記号が多いことが目立つ。しかし、「ウジとカバネ」が全く無かったかと言えば、そうでもない。「連」のカバネを持つ氏族は、垂仁天皇以後「ウジとカバネ」を持っている。「臣」のカバネを持つ氏族は、伝説上の人物とされる武内宿禰と膳臣を別にすると、「ウジ」を持つが「カバネ」は持っていない。「君」のカバネを持つ氏族は、諸縣君以外は允恭天皇より以前には「ウジとカバネ」は無い。

表84を見ると、允恭天皇以後、特に雄略天皇以後は●と■がほとんどを占めている。また、雄略紀には臣・連・伴造・国造の用語が出てくる。伴造
(とものみやつこ)の用語が出てくるのは雄略紀が初めてである。これは雄略天皇の時代に、有力豪族に「ウジとカバネ」の称号を与える氏姓制度が出来上がっていたことを示している。雄略朝の年代は「縮900年表」によれば464~486年である。氏姓制度の成立は6世紀からというのが通説であるが、氏姓制度の定義にもよるが、氏姓制度は5世紀後半に出来上がっていたと思われる。


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