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53-11.任那の滅亡と任那の調 [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『三国史記』新羅本記、「522年、加耶国王が使者を派遣して花嫁を求めてきた。王は伊湌(最高官位)の比助夫の妹を加耶に送った。524年、王は巡幸して、南部国境地帯の勢力を拡大した。伽耶国王が来て会盟した。」とある。520年己汶の地を倭国により百済に割譲させられた加羅同盟は、倭国との戦いに備えて新羅に接近したのである。

一方『日本書紀』には、532年[継体23年]3月、「加羅王は新羅王の女を娶って子を儲けた。新羅は女を送るとき百人のお供を付けた。各県に分散して受け入れたが、新羅の衣冠を付けた。加羅王・阿利斯等は衣服を変えたことに憤り、お供の人々を新羅に送り返した。新羅は面目を失い、王女を返すよう要求した。加羅はその要求を拒否した。ついに新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の三城を攻略し、また北境の五城も攻略した。」とある。「52
-5.金官国(南加羅)の滅亡は毛野臣のせいか」で示したように、532年[継体23年]の記事に在る話は、年月が前後して挿入されており、「加羅王は新羅王の女を娶って子を儲けた。」は、522~524年のことで、新羅が「刀伽・古跛・布那牟羅の三城を攻略し、また北境の五城も攻略した。」のが532年のことであろう。532年には金官国が新羅に投降し、それに続いて㖨国が新羅に滅ぼされている。「北境の五城」は加羅北部にある㖨国に比定した星山伽耶と考える。

欽明2年(541年)と欽明5年(544年)に百済の聖明王のもとで開かれた、金官国(南加羅)と㖨国(㖨己呑)の奪回のための任那復興会議に、加羅は多羅と共に参加している。加羅連合の地、己汶(南原)・滞沙(谷城)・多差津(蟾津江河口)を百済に奪われた加羅と多羅にとつては、会議をボイコットしてもよさそうであるが、新羅との戦いが始まっている加羅連合にとっては、連合国である㖨国の奪回することにより、新羅の脅威を除くためにも、百済と倭国の後ろ盾が必要であったのである。

『三国史記』新羅本紀、真興王23年(562年)には、「加耶が反乱を起こした。王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含を副将とした。斯多含は五千騎を率いて先鋒隊となり伽耶城の栴檀門に押し入り白旗を立てた。・・・異斯夫が軍隊を率いてやってくると、伽耶軍は一度にすべて降伏した。」とある。『日本書紀』には、欽明23年(562年)の記事に「新羅は任那の官家を打ち滅ぼした――ある本には、21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国である。」とある。安羅国と比定されている威安郡伽耶邑にある城山山城からは、山城建設の際の多数の荷札木簡が出土している。この木簡の内容からは、540年から560年頃にかけて、新羅が安羅に造った山城であることが分っている。『日本書紀』欽明22年(561年)の記事には「新羅、城を阿羅の波斯山に築いて、日本に備えた」とある。阿羅は安羅のことであり、安羅も加羅の滅亡前に新羅に滅ぼされている。加羅(大伽耶)の滅亡が、任那連盟の滅亡でもあった。

Z-80.6世紀末朝鮮半島.png新羅の真興王(540~576年)は、任那連盟(任那連合+加羅連合)を滅ぼす以前にも、積極的に領土拡張を進めている。541年から百済の聖王と同盟を結び、高句麗と交戦していた百済を助けたが、その一方では550年の高句麗と百済が交戦した時に乗じて、漢江上流域(忠清北道北部)の百済と高句麗の城を奪い取り、553年には百済が高句麗から取り戻した漢江下流域(京畿道)を奪い領有している。554年百済が加羅と連合して新羅の管山城(忠清北道南部)を攻撃した時には、奇襲攻撃で百済の聖明王を討ち取っている。これらの領土拡大については、各地に残る丹陽赤城碑(忠清北道丹陽郡)、昌寧碑(慶尚南道昌寧郡)、磨雲嶺碑(咸鏡南道)、黄草嶺碑(咸鏡南道)、北漢山碑(ソウル特別市)といったいわゆる真興王巡狩碑によっても確認することができる。図Z80に6世紀末の朝鮮半島勢力図を示す。

『日本書紀』を「任那」の文字で検索すると、最も多いのが29代の欽明紀で133件、2番目が33代の推古紀で29件、3番目が26代の継体天皇紀で16件である。欽明天皇紀の話題は「任那の復興会議」であり、継体天皇紀の話題は「哆唎等4県・己汶・多沙津の割譲」である。任那が562年に任那が滅んだ後の、推古紀(593~628年)における任那の話題は何であろうか。

敏達4年(575年)の記事に「新羅が使いを遣わして調をたてまつった。恒例よりも多かった。同時に和陀・多多羅・須奈羅・発鬼の四ヶ村の村の調をたてまつった。」とある。この四村は任那の地であり、この調は「任那の調」と呼ばれている。「52
-9.倭国は任那をどのように統治したか」で示したように、「和陀」は金官国(金海郡)、多多羅は卓淳国(昌原郡)、「須奈羅」と「発鬼」は、安羅国(咸安)と古嗟國(固城)にあった倭国の官家の村と考えた。敏達4年(575年)の任那の調は、562年に任那同盟諸国が亡び全ての官家の支配権を失っているにも関わらず、任那連合諸国の全ての官家の調を、新羅は倭国に奉っている。

これと同じような記事が、推古31年(623年)にもある。「新羅が任那を討っち、任那は新羅に付いた。天皇は吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に遣わし、任那の事件について問いただした。新羅国王は「任那は小さい国であるが天皇に付き従う国である。新羅が気ままに奪ったりはしない。今まで通り内宮家と定め心配ない。」と約束し、任那の調を奉っている。また、推古31年(623年)には、新羅は仏像一体および金塔と舎利を倭国に奉っている。新羅が任那を562年に滅ぼし、自国領に取り入れているんも関わらず、任那の調を倭国に奉っているのは、倭国の任那奪還を諦めさすための方便であり、百済との戦いで倭国を敵に回したくなかったのであろう。

孝徳天皇紀の大化元年(645年)7月に、「百済の調の使いが、任那の使いを兼ねて、任那の調も奉った。」とある。『三国史記』によると、642年に百済が新羅の西部の四十余城を攻め落とし、大耶城(慶尚南道陜川郡陜川面:もと多羅国)を陥落させた。新羅は唐や高句麗の援助を得られず、名将の金庾信を大将軍として戦い、648年には百済を撃破し奪回している。645年には任那(任那連合)の地は、百済の手中にあり、百済が任那の調を奉ったのであろう。百済も倭国を味方に付けておく方策をとっていた。

大化2年(646年)の記事には、「黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出させるとともに、新羅からの任那の調を奉つらせることを取り止めさせた。」とある。大化の改新により朝廷の税収が安定し、「任那の調」を当てにしなくてすむようになったのであろう。この記事以降、『日本書紀』を「任那」の文字は出て来ない。朝鮮半島南部の洛東江下流とその支流南江に囲まれた、倭人が住んでいた地域にあった任那連合の地を、倭国が諦めた年であった。


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