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53-10.任那日本府に権力は無かった [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』は中国・朝鮮の史書には記載されていないが、好太王碑と中原高句麗碑に刻まれた金石文に表記されている新羅の君主号「寐錦」や、『梁職貢図』の百済の使者の絵の横に書かれた文字に表記されている国名「伴跛(叛波)」を記載している。これからしても、『日本書紀』は史実に基づいた史書であることが分る。しかし、『日本書紀』は後世の用語が使われたり、物語化してあったり、誇張があったり、正悪・強弱が反対に書かれたりしている。『日本書紀』の書いていることは信用できないとして、その矛盾点だけをあげつらうと、史実は見えてこない。史料批判とは、おかしい所と正しい所を篩い分けることではないのだろうか。

『日本書紀』で「任那日本府・日本府」とい言葉が初めて表記されたのは雄略8年(471年)であり、その後は欽明2年(541年)から欽明13年(552年)の間の34回使われている。「日本」という国号は、新唐書(1060年撰)日本伝に「咸亨元年(670年)、倭は悪名なので、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。」とある。これより、『日本書紀』が「日本府」と記録している時代には「日本」という国号がなく、「日本府」は後世の創作だとする考えもある。『日本書紀』の述作者が「倭府」と書くのを嫌い、「日本府」と書いただけのことである。日本書紀は時代考証には無頓着で、「国宰」とすべき所を「国司」と書き憲法17条は無かったとされ、「評」とすべきところを「郡」と書き大化の改新は無かったとされ、『日本書紀』否定論者の餌食となっている。

2015年4月、検定合格した中学校教科書に「任那日本府」が記載されているとして、韓国のマスコミは「古代史でも日本が歪曲」と報道し、李完九首相が「事実に基づかない歴史歪曲をしてはならない。」と批判、国会は本会議で「日本政府の大韓民国に対する領土主権の侵害と歴史ねつ造行為を強く糾弾する」という内容の決議案を採択している。領土問題は別として、「任那日本府」が「歴史の歪曲」と大きく捉えられるのは、戦前の日本の歴史観が、任那諸国を日本の属国とみなし、「任那日本府」がその象徴とされていたからであろう。

私は日本書紀を精査することにより、次の結論を得た。
369年に倭国・百済・伽耶諸国(任那7ヶ国)は同盟の関係となった。石上神宮にある国宝の七枝刀をは、百済の肖古王がこの同盟を記念して倭王に奉じたものである。その同盟関係は伽耶諸国が滅びるまでの約200年間続いた。任那同盟諸国(任那連合と加羅連合)は、軍事的に倭国の保護を受ける代わりとして、倭国に自国の一部の領地を官家として差出し、その年貢を徴収して調貢した。任那同盟諸国の国王にとっては、新羅・高句麗・百済に占領されるよりも、倭国に官家を差出し、軍事的に倭国の保護を得た方が得策と倭国に頼っただけのことである。任那同盟諸国の南加羅・㖨己呑が新羅に占領されると、倭国は必至で新羅からその2ヶ国を奪回しようとしたが、それは官家のシステムが瓦解するからであった。任那同盟諸国は倭国の属国でもなく、植民地でもなく、同盟国であった。

532年[継体23年]には、「任那王、己能未多干岐が来朝した。――己能未多というのは、思うに阿利斯等であろう。」とある。阿利斯等は加羅の国王の名で、加羅連合の盟主国である加羅の国王が任那王と呼ばれている。532年は金官国(南加羅)の国王・金仇亥が新羅に投降した年である。それまでは、任那連合の盟主国である南加羅(金官国)の国王も任那王と呼ばれていたと思える。もしも任那諸国が倭国の属国であれば、任那日本府の長官が任那王となったであろう。継体天皇の時代以降は、任那日本府の権限はそれほど大きなものでなく、任那同盟諸国の官家の管理をしていた程度であったと思われる。

雄略8年(471年)新羅が高句麗の攻撃を受け、その救援を任那王に「どうか助けを日本府の将軍たちにお願いします」と求め、任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子らを送り、新羅を助けさせている。雄略天皇(武)は宋の皇帝から、軍事・内政面に支配権を与えるという「使持節・都督・諸軍事」の称号を得ている。雄略天皇の時代、任那日本府には倭国の軍隊が常駐し、任那同盟諸国の防衛機能を果たしていたのであろう。このときの任那王は南加羅(金官国)の国王であり、任那日本府は南加羅(金官国)に置かれていた。

継体天皇紀には任那日本府の言葉は一度も出て来ない。継体天皇の時代、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を百済に割譲したこともあり、任那日本府に倭国の軍隊を駐留さすことが無くなったのであろう。その隙を突いて、新羅は南加羅・
㖨己呑を占領したと思える。南加羅・㖨己呑を奪回するために、倭国から毛野臣が軍を率いて任那に行ったことからしても、継体天皇の時代、任那日本府には倭国の軍隊が常駐していなかったことが分る。宣化2年(537年)にも、新羅が任那を侵略したため、倭国は磐・狭手彦を遣わして、任那を助けさせている。南加羅が滅ぼされた532年以降は、任那日本府は安羅に置かれている。

欽明2年(541年)と欽明5年(544年)に
任那の再興(南加羅・㖨己呑・卓淳の奪回)に関する会議が百済で聖明王のイニシアチブのもとで開かれている。出席者は、任那日本府の吉備臣と任那同盟諸国(安羅・加羅・率麻・斯二岐・散半奚・多羅・子他・久嗟)の旱岐(君主)あるいは執事(役人)である。第一回の任那復興会議では、「任那の境に新羅を呼んで、こちらの申し入れを受けいれるかどうかを問いただす。」との聖明王の提案があった。

私の想像であるが、任那日本府の役人は聖明王の提案により、新羅と接触を計り、
南加羅・㖨己呑・卓淳の返還を要求したのであろう。もちろん新羅がそんな要求を呑むはずはなかった。そうすると百済は一転して、任那日本府の役人が新羅の策謀に陥って内応していると非難している。そして、第二回の任那復興会議では、「任那日本府の吉備臣・河内直・利那斯子・麻都の4名を辞めさせ帰還させる。」と天皇に奏上しようと提案している。任那の再興の成果が上がらないのは、任那日本府の臣や執事が新羅に内応しているからだと、その責任を任那日本府に押し付けるものであるのであろう。欽明天皇の時代、任那日本府には倭国から派遣された卿・臣・執事の役人がいたが、将軍はいなかったようで、軍隊を持たない任那日本府には何の権力もなかったのである。

韓国の考古学者は、任那日本府が実在すれば必ずやその遺跡が存在するはずである。しかし、戦前の日本人の発掘調査を含めて、これまでそのような遺跡は出土していない。だから任那日本府は存在しないという見解である。朝鮮半島の南部に住んで倭人は、任那連合の時代(日本の古墳時代)には、倭語は話したであろうが、文化的には伽耶の文化の中にいた。また、倭国から任那日本府にやって来て常駐していたものはそれほど多くなく、任那日本府の存在が確認できるほどの倭国の遺物は無いのではないかと思われる。

Z-79.朝鮮倭系遺物.png熊谷公男氏は『日本の歴史03、大王から天皇へ』で、「列島からもたらされた遺物、列島からやってきた人々が半島で製作された遺物が、半島南部の加耶地域の遺跡から少なからず出土している。・・・弥生時代までの倭系遺物は、北部九州のものが大半を占めるが、古墳時代にはいると畿内の遺物が主体となる」として、図Z79を掲載している。倭国が伽耶に進出していたことを示している。一方、倭国も任那同盟が始まった369年頃から、伽耶の文化を取り入れることにより、甲冑・利器・馬具・須恵器の文化を花開かせている。


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