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53-9.倭国は任那をどのように統治したか [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

倭国は任那同盟諸国を、どのように統治したのだろうか。それを示す文章が『日本書紀』の532年[継体23年]にある。「任那王、己能未多干岐が来朝した。――己能未多というのは、思うに阿利斯等であろう。――大伴大連金村に『海外の諸国に、応神天皇が内官家を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことにもっともなことである。いま新羅は始めにきめて与えられた境界を無視して、度々領土を侵害しております。どうか天皇に申し上げ、私の国をお助け下さい。』と言った。」とあるように、任那同盟諸国の国王は、それぞれの国を統治していた。そして、所領の一部を官家(みやけ)として倭国に差出し、倭国はその代わりに、軍事的保護を行うというシステムであったと考える。このシステムは、369年に倭国・百済・伽耶諸国(任那7ヶ国)が同盟の関係になった頃から始まったと思われる。

[継体23年]4月には、「新羅の上臣は四つの村を掠め――金官・背伐・安多・委陀
(わだ)の四村、ある本には多多羅・須奈羅・和多(わた)・費智(ほち)という。――人々を率いて本国に帰った。」とある。話は飛ぶが、敏達4年(575年)の記事に「新羅が使いを遣わして調をたてまつった。恒例よりも多かった。同時に多多羅・須奈羅・和陀・発鬼の四ヶ村の村の調を奉った。」とある。この四村は任那の地で、この調は「任那の調」と呼ばれている。この四村、多多羅・須奈羅・和陀(わだ)・発鬼(ほき)と、前記の「ある本」で示された四村、多多羅・須奈羅・和多(わた)・費智(ほち)は、漢字は少し違うが同じ村の名と言える。

朝鮮古代史専攻の田中俊明氏は、金官=
須奈羅、背伐=発鬼=費智、安多=多多羅、委陀=和陀=和多であるとしている。そうなると、「任那の調」は、金官国の全ての村の調(税金)を倭国に与えたことになる。金官国は、金官国王であった金仇亥に食邑と与えられており、息子の金武力は新羅の最高位の角干の位に付いており、食邑と与えた金官国の全ての村の調(税金)を取り上げることになるのは、おかしな話である。

Z-78.任那連合諸国.png私は、任那の調の多多羅・須奈羅・和陀・発鬼の四村は、任那連合諸国、金官国(金海郡)・卓淳国(昌原郡)・安羅国(咸安郡)・古嵯国(固城郡)にあった倭国の官家の4村であり、新羅に掠め取られた金官・背伐・安多・委陀の四村は金官国(南加羅)の四村であると考える。金官国の官家の村が和陀(委陀・和多)であったことは明らかである。また、金官国王・金仇亥に与えられた食邑は、金官村であったと考える。金官国金官村は、大阪府大阪市・奈良県奈良市のようなものである。

「52
-5.金官国(南加羅)の滅亡は毛野臣のせいか」で、毛野臣と3ヶ月も対峙した新羅の上臣が陣営を構えた多多羅原は、金官国と卓淳国と境にある卓淳国の地であった考えた。多多羅は卓淳国にあった倭国の官家の村と考える。平安時代の初めに編纂された京畿諸氏族の系譜書である新撰姓氏録には、山城国諸蕃の多々良公は、御間名国主・爾利久牟王の子孫と称し、欽明天皇の御代に投下し、天皇から多々良公の姓を賜ったとの記述がある。御間名国主・爾利久牟王は卓淳国の王であったと考えると、多々良公の名前の由来も理解できる。

須奈羅と発鬼は、安羅国(
咸安)と古嗟國(固城)にあった倭国の官家の村ではないかと考える。敏達4年(575年)の任那の調は、562年に任那同盟諸国が亡び全ての官家の支配権を失っているにも関わらず、任那連合諸国の全ての官家の調を、新羅が倭国に奉っている。倭国の任那奪還を諦めさすための方便であったのであろうか?

歴史の本では官家を「みやけ」と呼び、屯倉
(みやけ)と同じ直轄地であるとしている。屯倉には屯倉は直接経営し課税する場合と、直接経営しないが課税をする場合があるそうだ。[継体23年]百済が加羅国の多沙津を賜りたいと倭国に願ったとき、加羅王は勅使に「この津は官家が置かれて以来、私が朝貢の寄港地としているところです。」と言っている。加羅王は官家の調を倭国に朝貢として差出している。任那同盟諸国の官家においては、経営は諸国に任せて、官家の課税分を調貢させたのであろう。任那同盟諸国の国王にとっては、新羅・高句麗・百済に占領されるよりも、倭国に官家を差出し、軍事的に倭国の保護を得た方が得策と考えただけである。任那同盟諸国は倭国の属国でもなく、植民地でもなかった。

大和王権の財政にとって、任那の官家からの調(税収入)は欠くべからざるものであった。継体天皇の時代に上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を百済に割譲し、南加羅・
㖨己呑国・卓淳の三ヶ国を新羅に奪われると、大和王権の財政が悪化したのであろう。安閑天皇の時代になって全国に38ヶ所の屯倉を設けている。『日本書紀』を「屯倉」で検索すると、安閑朝38ヶ所、欽明朝6ヶ所、顕宗朝・宣化朝5ヶ所と、安閑天皇の在位が4年間であるにも関わらず圧倒的に多いことが分る。大和王権の財政がひっぱくしていたのであろう。大和王権が任那の復興にこだわったのはこのためであった。


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