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53-2.倭の五王の支配権が及ぶ国々 [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

4世紀に入り西晋(280~316年)が弱体化すると、朝鮮半島の勢力図は一変する。北部にあった高句麗は南下政策を取り、313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡を滅ぼした。また、4世紀初め頃には馬韓から百済が興り、辰韓から新羅が興っている。5世紀になって、高句麗・百済・新羅の三国に倭国も加わった、和合と抗争が朝鮮半島で繰り広げられている。その中で高句麗は、広開土王(392~413年)の時代に勢力を拡大し、427年に長寿王(413~491年)は平壌に遷都して、475年には百済の漢城(ソウル市)を落城させた。そのため、百済の文周王は都を熊津(忠清南道公州市)に遷している。

好太王(広開土王)碑に「倭は辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」とあるように、倭国も仁徳天皇(381~431年)の時代以降、朝鮮半島において高句麗と覇権を争っている。『宋書』
倭国伝によれば、451年宋に朝献した済(允恭天皇)は「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王」の称号を与えられ、478年に朝献した武(雄略天皇)も安東大将軍と昇格したが同じ称号を与えられている。倭王に与えられた「使持節・都督・諸軍事」の意味は、軍事・内政面に支配権を与えるという称号である。

倭は新羅にまで、軍事・内政面の支配権をもっていたのであろうか。2011年に発見された梁の『梁職貢図』、中国の皇帝に朝貢した諸国の使者の様子を表した絵図と付記には、「新羅は或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して始めて朝貢した。」とある。『日本書紀』には、351年(神功5年)、367年(応神14年)[神功47年]、391年(仁徳11年)に、新羅が倭国に朝貢したという記事がある。しかし、397年(仁徳17年)には新羅が朝貢しなかったので、倭国は問責の使いを出し、貢ぎ物を届けさせとある。417年(仁徳35年)[仁徳53年]では、新羅が朝貢しなかったので問責使を出すも戦となったとある。この年以後6世紀中頃まで、新羅が朝貢したという記事はない。好太王碑には、400年に高句麗は
新羅救援のため5万の歩騎を派遣し、倭軍を追い払ったとある。新羅と倭の関係においては、『梁職貢図』と『日本書紀』が記すように、4世紀の後半に新羅が倭国に朝貢するという関係があったが、5世紀には新羅と高句麗が同盟することにより、その関係は解消されていたのであろう。

倭の五王の済(允恭天皇)と武(雄略天皇)が、宋より認められた軍事・内政面の支配権は、任那・加羅・慕韓・秦韓に及んだと思われる。慕韓・秦韓は5世紀後半には存在しないとの説もあるが、私は全羅南道に馬韓の生き残りの慕韓が、釜山・梁山に辰韓の生き残りの秦韓が存在したと考える。全羅南道の栄山江流域には、5世紀末から6世紀前半に築造されたと思われる13基の前方後円墳がある。百済・新羅・伽耶の墳丘の形状は全て円墳であり、前方後円墳は明らかに倭国の影響を受けた墳墓と言える。これらの前方後円墳の存在は、これらの地に6世紀前半まで慕韓が存在し、倭国が軍事・内政面の関わりがあった証拠であると考える。

秦韓は釜山・梁山に生き残っていたのだろうか。秦韓が存在した釜山と梁山の中間の釜山市東菜区に福泉洞古墳群がある。幅約100m・
長さ700mの丘陵に、170基の古墳が発見された。その造営時期は三韓時代から三国時代(世紀初頭から世紀)までの長期にわたり、伽耶を代表するものである。発掘された遺物は土器類、金属類、裝身具など万点に及び、中でも鉄を含めた金属製品が千点出土していることが特徴である。

31
-32号墳は主槨・副槨共に木槨の5世紀の初頭の古墳で、陶質土器(須恵器)は伽耶系で新羅系が若干混じっている。21-22号墳は主槨が竪穴式石槨、副槨が木槨の5世紀前半の古墳で、陶質土器は伽耶系と新羅系が半々である。10-11号墳も主槨が竪穴式石槨、副槨が木槨の5世紀の半ばの古墳で、陶質土器は新羅系である。考古学的にみると、釜山・梁山に存在した思われる秦韓は、5世紀半ば頃に新羅の領域に入っている。『三国史記』新羅本記には「463年に倭人が歃山城(慶尚南道梁山郡)を攻めた。」とあり、釜山・梁山が5世紀半ば頃には、新羅の支配下にあったことが分る。

4世紀になって、洛東江中流域にあった弁韓国が加羅となり、洛東江下流と支流の南江で囲まれた倭人が住んでいた地が任那となった。加羅も任那もそれぞれ一国ではなく、小国の連合体と考え、加羅連合・任那連合と呼ぶことにする。洛東江上流域にあった辰韓と弁韓が雑居した弁辰の地は4世紀中頃には新羅の領域となっていると考える。『三国史記』によると、新羅は261年に達伐城(慶北
大邱市)を築き、沾解王(247~261年)のとき沙伐国(慶尚北道尚州郡)を州とし、293年には沙道城を改築して、沙伐州の有力者80余家を移したとある。これらの年代は信頼がおけないかもしれないが、5世紀後半に新羅が忠清北道に多くの城を造っていることからしても、少なくとも5世紀前半には弁辰の地が新羅の領域であったことは確かである。図Z69に4世紀末、図Z70に5世紀末の朝鮮半島の勢力図を示す。なお、三角形は5世紀後半に新羅が造った城である。

Z-69.70.4-5世紀末朝鮮半島.png
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