SSブログ

53-1.任那は朝鮮半島南部の倭人が住む地 [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』の欽明紀(540~571年)を読むと「任那」の文字がやたらに多いことに気付く。『日本書紀』を「任那」の文字で検索すると、最も多いのが29代の欽明天皇紀で133件、2番目が33代の推古天皇紀で29件、3番目が26代の継体天皇紀で16件である。ちなみに、「任那」の文字が最初に出てくるのが10代の崇神天皇紀で、最後に出てくるのが、36代の孝徳天皇紀(645~654年)である。

『日本書紀』(720年編纂)以外で「任那」の文字が出てくるのは、中国の史書では『宋書』(~513年編)、『南斉書』(~537年編)、『梁書』(629年編)、『翰苑』(660年編)であり、金石文としては「好太王碑」(414年建立)、「新羅眞鏡大師塔碑」(924年建立)である。なお、朝鮮の正史『三国史記』(1145年編)では、「任那」の文字の表記は列伝に「臣はもと任那加良の人」と一例あるだけで、本紀には全く出て来ない。『三国史記』が任那の国の存在を無視しているのは、編纂者の金富軾にナショナリズムの想いがあったからであろうか。

Z-67.3世紀末朝鮮半島.png「任那」を理解するためには、高句麗・百済・新羅の三国が登場する以前の、朝鮮半島の情勢について理解しておく必要がある。『三国志』魏志韓伝(~297年編)に、「韓は帯方郡の南にあり、東西は海である。南は倭と接す。韓には馬韓・辰韓・弁韓の3種がある。馬韓は西に在り、およそ50余国。辰韓は馬韓の東にあり、始め6ヶ国に分かれていたが12ヶ国となる。弁辰も12ヶ国で、辰韓と雑居している。弁辰の瀆盧国は倭と界を接している。」、「国(辰韓or弁辰?)には鉄が出て、韓、濊、倭が皆これを取っている。また、楽浪・帯方の2郡に供給している。」とある。辰韓12ヶ国と弁韓(弁辰)の12ヶ国を一緒に明記しているが、数が合わないばかりか、両者に同じ名前の国が2ヶ国ある。私は、辰韓と弁韓、そして両者が雑居している弁辰があると理解する。辰韓と弁韓が雑居している「弁辰」の地域は、洛東江上流域であると考えた。弁韓と倭が接するという事は、その境が山で区切られているのでなく、平野の中で川を境にしていると考え、弁韓と倭の境は洛東江とその支流の南江であるとした。図Z67に3世紀中頃の朝鮮半島の勢力図を示す。
Z-68.朝鮮半島弥生土器.png
言語学者の伊藤英人氏は論文「朝鮮半島における言語接触」の中で、「多くの論者が、この時期(3世紀)朝鮮半島南部に倭語を話す集団が存在していたことに言及している。」と書いている。図Z68は石田あゆみ氏の論文「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉」に示された図である。3世紀朝鮮半島南部に倭人が住む地域があることは、言語学・考古学の面からも証明されている。


『日本書紀』で「任那」が初めて出てくるのは、270年(崇神20年)[崇神65年]に、「任那国が蘇那曷叱智を遣わして朝貢して来た。任那は筑紫を去ること2千余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある。」とある。筑紫(福岡)から任那(金海)までの距離は、福岡→壱岐
(芦辺)→対馬(厳原)→対馬(韓崎)→金海のルートで、地図で測ると264kmである。魏志倭人伝の里数の計算で、私は500里が60kmであるとして、倭国の国々を比定した。この公式を用いると筑紫(福岡)から任那(金海)は2200里となり、『日本書紀』の2千余里とほぼ一致する。魏志倭人伝の里数の計算については、「48-8.西都市に邪馬台国の都があった」を参考頂きたい。

275年(垂仁2年)に、「任那の蘇那曷叱智に、任那王の贈物として赤絹百匹を持たせて帰らしたが、新羅の人が途中でこれを奪った。両国の争いはこのとき始まった。」とある。『三国史記』新羅本記には、新羅と任那の抗争の記事は一つもない。しかし、新羅と倭人・倭兵との抗争の記事はたくさん記載されている。新羅と倭国の抗争以外に、新羅と任那在住の倭人との抗争があったと考えるとつじつまが合ってくる。朝鮮半島南部の倭人が住む地域の総称が「任那」と考える。

なお、『日本書紀』の編年(西暦と年号)は「縮900年表」で表示している。[ ]で囲んだ西暦と年号は『日本書紀』の編年通りである。年号が「縮900年表」と『日本書紀』が同じである場合は、[ ]の表記は省略している。今後この表記を使用する。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。