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53-3.倭国・百済・任那諸国は同盟関係にあった [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』369年(応神16年)[神功49年]の記事には「倭国の荒田別と鹿我別の二人の将軍は兵を整え、百済の使者と共に卓淳国に至り、百済の木羅斤資の率いる精兵の応援も得て、新羅を打ち破った。そして比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国を平定した。・・・百済王の肖古と皇子の貴須は、荒田別・木羅斤資と意流村で一緒になり、相見て喜ろこんだ。・・・百済王は春秋に朝貢しようと誓った。」とある。

欽明2年(541年)4月の記事には、百済の聖明王が任那の旱岐(国王)らに、「昔、わが先祖速古王・貴首王の世に、安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、初めて使いを遣わして、相通じ親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願ったのである。」と言っている。また、7月の記事には「昔、わが先祖速古王・貴首王と、当時の任那諸国の旱岐らが、はじめて和親を結んで兄弟の仲となった。それゆえ自分はお前を子どもとも弟とも考え、お前も我を父とも兄とも思い、共に天皇に仕えて強敵を防ぎ。国家を守って今日に至った。」とある。

欽明2年の百済の聖明王が語った話は、[神功49年]にある話と同じで、速古王と貴首王は肖古王と貴須王であり、比自・南加・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国が任那諸国でる。[神功49年]の
Z-51.七支刀.png「七ヶ国を平定」という言葉には、属国化するとか、植民地化するというニアンスがあり、戦前には倭国は任那諸国を植民地として支配したという通説があった。しかし、欽明2年の聖明王が語った話は、倭国の天皇を盟主として、倭国・百済・任那諸国が同盟関係にあったことを示している。石上神宮の国宝の七支刀は、百済の肖古王がこの同盟を記念して372年に倭王に奉じたものであり、「七枝」には同盟の想いが込められていたのである。


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ゆーさん

 そのとおりだと思います。

 魏志倭人伝を丁寧に読み解けばでてきますし、その後の高句麗への出兵、倭の5王の存在等は、朝鮮半島でなければ考えにくいと思っています。(←日本での倭国諸国のレベルはそこまで達してなかった。)金印は、敗走するときに日本に持ち込まれたと考えています。
by ゆーさん (2019-01-10 01:57) 

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