SSブログ

51-6.応神陵古墳の年代は陪塚で分かる [51.統一国家(大和王権)はいつ誕生したか]

古墳時代の象徴が前方後円墳であり、その巨大さで最高峰に立つのが大阪府堺市にある墳丘長さ486mの大山古墳、仁徳陵古墳である。それに続く巨大な前方後円墳は羽曳野市にある墳丘長さ420mの誉田御廟山古墳、応神陵古墳である。平成22年10月文化庁は、世界遺産暫定一覧表への百舌鳥・古市古墳群の掲載を認めた。残念ながら昨年度の世界遺産の登録候補としては推薦されなかったが、堺市・羽曳野市・藤井寺市が提出した提案書の表題は、「百舌鳥・古市古墳群-仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群-」である。この提案書の作成には考古学者も関わっているなかで、「仁徳陵古墳」や「応神陵古墳」と表記されたことは意義深いことに思われる。それは、考古学において、仁徳陵古墳とか応神陵古墳と呼ばれることはなく、仁徳天皇・応神天皇の存在すら疑われていた時代があったからである。

応神陵古墳の築造年代は、私の編年表からすると埴輪Ⅳ式と誉田八幡宮にある長持形石棺から400年~469年と推定されるが年代幅が広い。応神陵古墳の外堤外側から須恵器TK73が出土しているが、これが応神陵古墳の築造当時のものであるとすれば、築造年代は400年~419年となる。しかしながら遺物の信頼性に欠ける。

応神陵古墳は宮内庁が管理しており考古学的資料は少ない。それならば、考古学的資料は応神陵古墳の陪塚に求めるしかない。宮内庁は墓山古墳を応神陵古墳の陪塚としている。墓山古墳は円筒埴輪Ⅲ式(370~409年)と人物埴輪(400年~)の関係から、築造年代が400年~409年に比定できる。しかし、墓山古墳自体に陪塚があることから、考古学的には応神陵古墳の陪塚ではないとされている。

Z-53.応神陵古墳.png応神陵古墳の陪塚の一つだと確実視されているのがアリ山古墳だ。アリ山古墳は一辺45mの方墳で、応神陵古墳の二重濠外堤に接して築かれており、おびただしい量の鉄器(鉄斧134個、蕨手刀子151個、鉄鑿90個、鉄鎌201個、鉄鍬先49個、鈎状鉄器412本等)が出土している。編年表からは円筒埴輪Ⅳ式(400~479年)と蕨手刀子(330~399年)の要素から、築造年代は395年から405年となる。応神天皇の治世は「縮900年表」では、354年に即位し378年に崩御している。応神陵古墳の築造年代は395年から405年とすると、崩御の15年~20年後に古墳が完成したことになり、両者の関係はほぼ妥当である。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。