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51-7.仁徳天皇は好太王と覇権を争った [51.統一国家(大和王権)はいつ誕生したか]

Z-54.好太王碑.png

邪馬台国の卑弥呼が魏と交わったのが三世紀前半であり、倭の五王が南朝と好を結んだのが5世紀である。この150年間、正確には晋書の「泰始2年(266年)、倭の女王使者を遣わして貢献」から、「義熙9年(413年)、高句麗・倭国方物を献ず」の間、中国の歴史書には倭国の名は登場しない。この空白の150年間で、古代朝鮮の遺物、好太王碑(広開土王碑)に倭国の名が登場する。好太王碑は中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域、その昔高句麗の王都・丸都城のあったところにある。碑は高さ6.3m、幅1.4~1.9mで四面に渡って約1800の文字が刻まれている。碑文は三段からなり、第一段は高句麗の開国伝承と建碑の事情、第二段は好太王の功績、第三段は陵墓の墓守についてである。倭国に関する記事があるのは第二段で、好太王が領土を拡大した業績を賛美した部分に「倭」の文字が8文字出てくる。

朝鮮の正史『三国史記』によると、高句麗の好太王(広開土王)の在位は392~413年であり、好太王と対峙した百済の王は、阿華王(在位392~405年)と直支王(在位405~420年)である。倭国は、「縮900年表」によれば、仁徳天皇(在位381~431年)となる。『日本書紀』では阿花王・直支王の名が登場するのは応神紀であり、これらの関連記事は書紀編年から120年戻せば、全てが仁徳天皇の治世下に入っている。

好太王碑の倭国に関する最初の記事は「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」とある。□は「攻」「撃」「侵」の文字ではないかと考えられている。「以辛卯年来」については、従来「辛卯の年に来た」と解釈されていたが、「辛卯の年よりこのかた」との解釈が西嶋定生氏によりとなえられた。私も西嶋氏の説に賛同する。「以来」も「年来」も「よりこのかた」である。
倭と百済・新羅の関係を『日本書紀』に求めた。( )は「縮900年表」による年号 、[ ]は『日本書紀』による年号。

391年(仁徳11年)[仁徳11年]
 新羅人の朝貢があった。そこで茨田の堤の役に使われた。
392年(仁徳12年)[応神3年]
 百済の辰斯王が倭国の天皇に対して礼を失することが多く、紀角宿禰等4名派遣。
 百済国は陳謝し、
辰斯王を殺し阿花王を立てる。
397年(仁徳17年)[応神8年]
 阿花王が立って倭国に無礼をした。それで枕彌多礼、峴南、支侵、谷那・東韓の地を奪われた。
 そのため王子・直支を天朝に遣わして先王の好を修好した。
397年(仁徳17年)[仁徳17年]
 新羅が朝貢しなかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。
 新羅人は恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。
405年(仁徳25年)[応神16年]
 百済の阿花王が薨じた。
 天皇は直支王子に「国に帰り位につきなさい」と言われ、東韓の地を賜り帰国された。


好太王碑にある「辛卯の年(391年)以来、倭が百済・新羅を臣民とした」状況は『日本書紀』によく表れている。そして、好太王は倭国(仁徳天皇)と一戦を交えることになったのである。

399年「好太王碑」
 百済は誓いを破って倭と和通したので、(高句麗)王は平壌に出向いた。
 新羅の使いが、倭が新羅の国境に満ちていると救援を請願した。
400年「好太王碑」
 新羅救援のため5万の歩騎を派遣した。新羅城には倭軍が満ちていた。
 官軍が到着すると倭軍は退却した。これを追撃して任那・加羅に至る。
404年「好太王碑」
 倭が帯方に侵入してきたので、王は平壌に討って出て大敗させた。

『宋書』
倭国伝では、讃(仁徳天皇)が亡くなり438年に朝献した珍(反正天皇)は、「使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王」の称号を求め、宋からは「安東大将軍倭国王」のみの称号を与えられている。反正天皇が朝鮮半島の五国に軍事的支配権を求めていることは、仁徳天皇(在位381~431年)の時代に、朝鮮半島に進出・侵出した実態があったからであろう。仁徳天皇は朝鮮半島において、好太王と覇権を争っていた。


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