SSブログ

51-5.葛城襲津彦は新羅の美女に籠絡された [51.統一国家(大和王権)はいつ誕生したか]

『日本書紀』に書かれた七枝刀の記事と、石上神社にある国宝・七支刀の金石文が一致しており、神功46年から神功65年の百済国と倭国の交流記事は、120年遡って挿入されていることが分る。一方、「縮900年表」は、記載された記事と記事の間の4年以上の空白の期間を取り除き編年を組み立てている。「縮900年表」に120年戻した神功46年から神功65年の百済国と倭国の交流記事を重ね合わせてみると、面白い史実が浮かび上がってくる。( )は「縮900年表」による年号 、[ ]は『日本書紀』による年号。

367年(応神14年)[神功47年]・・・「120年戻す」
  百済王が久氐を遣わし朝貢。一緒に来た新羅の貢物は珍品が多く、百済の貢物は貧素で少なかった。
 久氐は新羅が貢物を奪い取り換えたと説明した。千熊長彦を新羅に遣わし、百済の献上物を乱したこと
 を責めた。
367年(応神14年)[応神14年]・・・「縮900年表」
  弓月君が百済からやってきて、「我が国の百二十県の人夫を率いて来たが、新羅人が邪魔をしたので、
 みな加羅に留まっている。」と奏上した。葛城襲津彦を遣わして、弓月の人夫を加羅から召された。
 しかし、葛城襲津彦は3年経っても帰ってこなかった。

この二つの記事は、暦年が同じばかりか、百済の使者が倭国に来る途中に、新羅に邪魔をされた内容もよく似ている。また、千熊長彦は神功47年に新羅に遣わされ、帰国したのは神功50年で滞在4年間である。葛城襲津彦は応神14年に加羅に遣わされ、帰国したのは16年で滞在は3年間である。1年の違いはあるがよく似ている。これら二つの記事は、もともと一つの史実を二つに分けて物語化したものと考えられる。そうすれば、千熊長彦は葛城襲津彦と同一人物ということになる。

葛城襲津彦が千熊長彦と同一人物であるとすると、襲津彦の朝鮮半島への渡航は4回となる。
351年(神功 5年)[神功 5年]:新羅討伐、この年帰国
367年(応神14年)[神47・応14]:加羅に派遣、3年(or4年後に帰国
371年(応神18年)[神功51年]:百済に派遣、翌年帰国
382年(仁徳 2年)[神功62年]:新羅討伐、密かに帰国(百済記)

382年の襲津彦の朝鮮半島への最後の渡航は、神功62年(書紀編年262年)を120年戻した編年となっている。『日本書紀』はこの記事の後に『百済記』からの引用を載せている。「百済記に云う、壬午の年に新羅が貴国(倭国)に朝貢しなかったので、貴国は沙至比跪
(さちひこ)を遣わして討たせた。沙至比跪は新羅の差出した美女を受け取り、反対に加羅を討った。加羅の王は百済に逃げ倭国に来て、その事を訴えた。天皇は大いに怒られ、木羅斤資を加羅に遣わして、国を回復させたという。一説には、沙至比跪は天皇の怒りを知り、ひそかに帰国し隠れていた。皇宮に仕えている妹に、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は『今日の夢に沙至比跪を見ました』と天皇に申し上げた。天皇は「沙至比跪はなぜ来たのか」と怒られた。妹は天皇の言葉を伝えた。沙至比跪は許されないと知り、石穴に入って死んだ。」

沙至比跪と葛城襲津彦が同一人物であることは明らかである。私が一番注目するのは、『百済記』に葛城襲津彦の「妹」が天皇に仕えていたとしていることだ。「妹」は「いもうと」ではなく「いも」である。「妹
(いも)」は妻・恋人を表わす敬称とされているが、娘を表す敬称でもあったという見解もある。「縮900年表」では、382年(仁徳2年)に葛城襲津彦の娘・磐之媛が仁徳天皇の皇后になっている。神功46年から56年の挿入記事は、120年戻すと「縮900年表」では、応神天皇の時代に収まり、神功62年から65年の記事は、仁徳天皇の時代に収まっているが、『百済記』の葛城襲津彦の話はそれを証明している。

『百済記』の話では、襲津彦が新羅征伐に行き、新羅の差出した美女に籠絡され、反対に加羅を滅ぼした。このことで天皇の怒りを買い、密かに帰国したが、許されないと知り石穴に入り亡くなっている。「石穴」とは古墳の横穴式石室のことで、襲津彦は石穴に入り亡くなったのではなく、亡くなって横穴式石室に葬られたと考える。九州型横穴式石室はその源流は朝鮮半島にあるとされており、近畿の横穴式石室に先行して、4世紀後葉に発生している。襲津彦が密かに帰国した時期、四世紀後葉と一致する。

Z-52.老司古墳.png度々朝鮮半島に派遣された葛城襲津彦は、その拠点を大和の葛城から福岡平野に移していたと考えると、襲津彦は九州型横穴石室に埋葬されたことになる。福岡平野の首長の墓と考えられている福岡市の老司古墳は、最も古い九州型横穴式石室を持つ前方後円墳である。古墳からは最も古いタイプの三角縁神獣鏡が出土しており、大和との結びつきが感じられる。また、初期の須恵器(TK73型以前)や馬具も出土しており、朝鮮との通交も明らかである。老司古墳は葛城襲津彦の墓ではないかと空想する。

葛城襲津彦の娘・磐之媛は、仁徳天皇の浮気に耐えかねて、399年に灘波の宮を出て山城の筒城(綴喜)に宮室を造り住まわれた。そのとき、奈良山を越え葛城を望んで詠んだ歌。
「つぎねふ 山城川を 宮上り 我が上れば 青丹よし 奈良を過ぎ小楯 大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」(山城川を遡ると、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、私のみたいと思う国は、葛城の高宮の我が家のあたりです。)
磐之媛にとっては葛城の実家に帰りたかったのであろうが、父の葛城襲津彦は筑紫に移り住み、既に亡くなっており、帰る実家も無かったのであろう。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。