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50-4.13歳の女王・壱与は崇神天皇 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

魏志倭人伝には「卑弥呼が死んだので、続いて男王が立ったが国中が承服せず戦が起こり、千人余の人が亡くなった。そこで卑弥呼の宗女、13歳の壱与を王に立てて国中が治まった」とある。卑弥呼の亡くなったのは247年頃である。一方「縮900年表」では、247年に神武天皇が亡くなり、その後3年間空位で、251年に崇神天皇が即位している。卑弥呼の亡くなった年に、神武天皇が亡くなったことになっている。

このことを私は次のように解釈している。神武天皇が東征に成功し、241年に大和国を建国した。247年頃に卑弥呼が亡くなった後、神武天皇(男王)が倭国王として立つたが、大和国が強国になることを恐れた倭国連合の国々は承服せず、248年に戦が起こった。そこで神武天皇は、祖父の彦火火出見尊が玉依姫に王位を譲り、玉依姫が倭国連合の女王・卑弥呼として共立されたことに倣い、卑弥呼の宗女である13歳の壱与に大和国の王位を譲り、倭国連合の女王(崇神天皇)として立てることにより国中を収めた。その後、神武天皇は大彦命として、崇神天皇の後ろ盾となって活躍したと考えている。

崇神天皇は女王で卑弥呼の宗女・壱与と比定した。「宗」の字を漢和辞典で引くと「よつぎ。長子。正妻から生まれた長男」とあり、「宗女」は「長男の娘」と解釈できる。卑弥呼(玉依姫)の長男は五瀬命で、233年に磐余彦尊と一緒に日向より東征に出発して、途中吉備に235年から3年間滞在し、船舶を整え武器や食料を蓄えた後に東に向かい、河内国の生駒で傷つき、237年に紀の国の亀山で亡くなっている。吉備の高島宮に滞在していた3年間の間に、五瀬命と吉備国王の娘との間に出来た子が壱与であると考える。崇神天皇の即位は251年であり、五瀬命が吉備を離れて14年目のことであり、壱与の年齢13歳と合っている。

崇神天皇が女王であったと言うことを唱えた人は、『日本書紀』の研究が盛んに行われた平安~江戸時代、明治以降の学者・研究者の誰一人いない。奈良大学学長であられた水野正好氏の「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」という非常に近い説があるくらいだ。書紀では崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇と呼ばれ、皇后は御間城姫で天皇も皇后も同じ「御間城」と言う名が付いている。「御間城入彦」は「御間城姫」の入り婿であることを示している。251年に即位した崇神天皇(御間城姫)は女天皇であった。

260年崇神天皇は大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に、四道将軍を派遣し討伐を命じている。吉備津彦を派遣した西海は、平安時代の西海道と同じとして、九州を指すと考えられているが、私は、西海は四国であると思っている。
卑弥呼を倭国王に共立し、また壱与(崇神天皇)が倭国王になることで戦いを治めた国々は、吉備・出雲以西の中国と九州(除く大隅:狗奴国)にある29ヶ国の倭国連合の国々である。倭国連合の国々の討伐を命じることはなかったであろう。

崇神天皇が四道将軍を北陸・東海・四国・丹波に派遣したのは、
日向にあった邪馬台国を盟主国とする倭国連合から、大和国を盟主国とする倭国連合の時代になって、大和国(ヤマト王権)の領域・支配域を、連合国以外の地に拡げる行動であったのであろう。神武天皇は大和に倭国の領域を拡げ「始馭天下之天皇(始めて天下を治められた天皇)」と称され、崇神天皇は北陸・東海・四国・丹波に大和国(ヤマト王権)の領域・支配域を拡げ「御肇国天皇(国をお始めになられた天皇)」と称されている。


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