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50-3.神武東征の熊野迂回は朱の探索 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

「縮900年表」からは、邪馬台国は日向にあって、神武天皇が東征し、241年に大和国(考古学者の言うヤマト王権)を建国したことが読み取れる。図Z37に磐余彦尊(神武天皇)が日向を出発して、橿原宮で建国するまでの書紀に記載された経路を示した。磐余彦尊が諸皇子・舟軍を率いて日向を出発したのは、「縮900年表」では234年(甲寅)10月となり、卑弥呼の存命中である。速吸之門(豊予海峡)・筑紫国の宇佐(大分県宇佐市)から、筑紫国の遠賀川の河口にある岡水門(福岡県遠賀郡)に行っている。航海としてはリスクの高い関門海峡を通り岡水門に向かっているのは、その昔、饒速日命に従って既に大和に行っている物部一族から、大和の情報を集めるためであったと考える。
Z-37.神武東征図.png
12月に安芸の国の埃宮(広島県安芸郡府中町)に入り、235年(乙卯)3月には吉備国に移り、高島宮(岡山県児島郡)で3年間滞在している。その間、船舶を調え、兵器や食糧を蓄え、天下を平定しようと準備している。日向を出発して吉備国までの間、戦いは一度も行っていない。吉備国が邪馬台国連合国の東の端の国であるとする、私の説と合致している。

Z3-8.弥生・古墳時代の大阪.jpg

238年(戌午)2月、磐余彦尊は船団を組んで東に進み、潮の流れが速い難波崎(大阪市)を経て、3月に河内国の草香村(東大阪市日下町)の白肩津に着いた。軍は兵を整え竜田に向かったがその道は狭くけわしかったので引き返し、東の方の生駒山を越えようとして、長髄彦と孔舎衛坂(中河内郡孔舎衛村)で戦いとなった。兄の五瀬命が流れ矢に当たり負傷し、盾津(中河内郡盾津町)に引き返えした。図Z38に弥生後期の河内湖と遺跡を示す。河内湖にある難波崎・草香(日下)・盾津の位置関係、生駒山を越える竜田・孔舎衛坂など『日本書紀』の表現に齟齬はない。

磐余彦尊は「日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは、天道に逆らっている。背中に太陽を背負い、日神の威光をかりて、敵におそいかかるのが良い。」と茅渟の海(大阪湾)の雄水門を通り、紀の国の竃山に来て、軍中で亡くなった五瀬命を葬った。和歌山市和田に五瀬命を祭神とする竃山神社があり、隣接する丘の上の墳丘を陵墓に比定している。その後、磐余彦尊は熊野(新宮市・熊野市)まで行き、そこから宇陀に向け北上している。宇陀に行くには、紀の川を遡上すればしよいことで、熊野に行く必然性が全くない。これらからして、神武東征が史実であったことが疑われている。

弥生時代の青銅器は、銅剣・銅矛・銅戈と銅鐸の文化圏に分けられるが、和歌山県は銅鐸文化圏に属し、銅鐸の出土が兵庫県・島根県に続く全国第3位で、徳島県と同じ42個である。和歌山・有田付近では、「聞く銅鐸」と言われる古いタイプの扁平鈕式が多く、御坊・南部・田辺付近では、「見る銅鐸」と言われる大型の突線鈕式が多い。田辺市より南では、新宮市の上倉山コトビキ岩から突線鈕式の破片が唯一出土しているが、銅鐸を使用していた形跡はない。

和歌山県の古墳の分布をみると、紀ノ川流域から有田川流域にかけて約1300基あるが、日高川以南には300基しかない。さらに田辺市より南ではすさみ町の上ミ山古墳(日置川と串本の間)と太子町の下里古墳(大田川河口)の2基しかない。三重県側は古墳があるのは紀伊長島町までである。熊野灘沿岸地域(那智勝浦・新宮・熊野・尾鷲)には、古墳が作られた形跡はない。

飛鳥時代の天皇の行幸は、紀伊国では田辺・白浜あたりまで、伊勢国への行幸は伊勢・志摩あたりまでで、熊野の地に足を踏み入れることはなかった。弥生・古墳・飛鳥時代は、熊野灘沿岸地域(那智勝浦・新宮・熊野・尾鷲)は、まだ「熊野」と呼ばれていなかった。この時代の「熊野」は、有田・御坊・南部・田辺・白浜であったと考える。

238(戊午)年6月、磐余彦尊は名草邑で女賊の名草戸畔を誅している。その後、遂に狭野を越えて、熊野神邑に至り天磐盾に登っている。磐余彦尊は軍を勧め、海を渡るとき急に暴風に遇い、兄の稲飯命と三毛入野命を亡くし、熊野の荒坂の津(丹敷浦)に着いて女賊の丹敷戸畔を討った。そのとき神が毒気を吐いて人々は病み伏してしまい、皇軍は起き上がる事が出来なかった。

名草邑は和歌山市の名草山周辺、佐野は紀伊と熊野の境界で宮崎の鼻ある有田市宮崎町あたり、熊野の神邑で登った天磐盾は、吉備町の田殿丹生神社の裏山にある白山に比定する。白山はみごとな形の神奈備山で巨大な磐座がそそり立っており天磐盾と言える。暴風にあった海は日ノ御崎を廻った太平洋で、荒坂の津を田辺湾に比定する。女賊の邑とは、男が航海に出ている海人の邑の事であろう。神の毒気で病み伏し起き上がれなかとは、白浜で温泉に入り旅の疲れ眠り込んでしまったことを表わしていると考える。

Z-39.熊野迂回は朱の探索.png図Z39は、私が考えた紀伊から宇陀までの熊野迂回ルートである。このルート上には、丹生の地名・丹生神社・水銀鉱山が多数ある。磐余彦尊は朱の探索を行ったと考える。『日本書紀』が記す神武東征の記述の中には、朱の探索について書かれた記事が多数ある。磐余彦尊は八咫烏の先導で内陸部に向かい、宇陀の穿邑(宇陀市莬田野区宇賀志)に着き、宇陀の頭目である兄猾を殺した。その血で染まった地を宇陀の血原という。宇陀には丹砂を含む赤地土があり、それが血原と呼ばれたと考える。宇陀市莬田野区大沢には日本第2位の大和水銀鉱山がある。その後、磐余彦尊は軽装の兵を連れて、井戸・国栖・阿太(阿田)と吉野を巡幸している。吉野の井光では「井戸の中から体が光って尻尾のある人が出て来た」とある。松田寿男氏は「丹生の研究」で、腰に尻当を紐でぶらさげた水銀採掘者が竪坑から出て来た様子としている。磐余彦尊の熊野から宇陀への迂回、吉野の巡幸など、大和を攻めることだけを考えると不可解な行動だが、丹砂の探索と考えれば十分納得が出来る行動である。

書紀は次のように書いている。「宇陀川の朝原で水の泡がかたまりつく所があった。」「沢山の平瓦で水なしに飴を作ろう、もし飴が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る。」「厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が浮いて流れたら、この国を平定出来る。」。宇陀川の支流の丹生川に丹砂の鉱脈や露頭があり、川の流れが淀む所(水の泡がかたまりつく所)に、比重の重い丹砂が堆積しており、平瓦に丹砂の混じった砂をのせ、水中でゆすって丹砂を採取したのであろう。古代の飴は水飴であるが、その水飴に例えた物は「水銀」と考える。丹砂を厳瓮(御神酒瓮)に入れて400度程度に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生する。このガスを水中に入れると、水銀蒸気から球状の水銀が取れる。また、亜硫酸ガスは毒性がり、水に溶けるので魚が死んで浮かんでくることになる。

なお、弥生時代・古墳時代に使用された赤色の顔料は、真っ赤な朱(丹砂・朱砂・辰砂)と黒ずんだ赤色のベンガラの両者がある。朱は硫化水銀で色も鮮やかで高価なもの、ベンガラは酸化第二鉄で安物であるが、両者の区別は難しい。磐余彦尊が行った水銀の精製は、丹砂が間違いなく朱であると確認する方法だったと思われる。磐余彦尊は朱の探索に成功し、長脛彦を討ち破り、そして大和の橿原に宮を建て建国した。その後、ヤマト王権は朱(丹砂)を魏に献上して、三角縁神獣鏡などの鏡を得た。その鏡を倭国の国々に配布することにより、国を平定することが出来たのである。

前期前方後円墳である桜井茶臼山古墳からは81面の銅鏡片が出土、石室は約200kgの朱で塗られていた。大和天神山古墳からは20面の銅鏡と41kgの朱が出土、椿井大塚山古墳からは37面の鏡と10kgを超える朱が出土、黒塚古墳からは34面の鏡が出土し木棺内や粘土床には朱が使われていた。「飴(水銀)が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る」。まさに、日本書紀に記載された通りの歴史である。神武東征は史実であった。


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