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50-5.箸墓の築造年代が歴史を解明した [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

2009年5月の考古学協会総会で、国立歴史民俗博物館がAMS法による炭素14年代測定により、大和の纏向にある箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると発表し、「 箸墓が卑弥呼の墓である可能性が高まった、邪馬台国は大和にあった。」と新聞を賑わせた。一方、『晋書』起居注(天子の言行の記録)には、「武帝の泰始2年(266年)10月に倭の女王が貢献した」とある。『晋書』起居注は現存していないが、その引用文が『日本書紀』神功66年の記事にある。『晋書』武帝紀の泰始2年には、「11月己卯、倭人が来たり、方物を献ずる」とあり、266年に倭の女王が晋の武帝に朝貢したのは確かであろう。日本史のどの年表にも「266年、倭の女王壱与、晋に遣使」と記載している。

Z-40.箸墓古墳.pngこの二つの事実からすると、箸墓は「女王・壱与」の時代に造られたことになる。『日本書紀』は崇神天皇10年に「倭迹迹日百襲姫を箸墓に葬った、その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造った。」と記載している。「縮900年表」では、箸墓が造られた崇神天皇10年は260年となる。「縮900年表」の崇神紀の箸墓築造と、炭素14年代測定の箸墓古墳築造年代と一致している。これらより、壱与=御間城姫=崇神天皇とする私の説が成り立ってくる。

魏志倭人伝では、卑弥呼は247年頃に亡くなり、壱与が女王に共立される前に径百歩の墓が造られたように書かれているが、日向で亡くなった倭国の女王であった卑弥呼(玉依姫)の墓を、10年後に新天地の大和の纏向に造っても不思議ではない。箸墓が卑弥呼の墓で、壱与の時代に造られたと考える。崇神天皇を壱与とすると、魏志倭人伝および晋書と何の矛盾も起こらない。箸墓からは吉備の弥生墳丘墓にある特殊器台形埴輪が出土している。崇神天皇(御間城姫)が卑弥呼の宗女の壱与であり、母が吉備国王の娘であるとした仮説と一致する。
科学的な年代測定法による箸墓の築造年代が歴史を解明した。


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