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50-2.900年縮めた年表と「倭の五王」 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

日本の古代史を明らかにする手掛かりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『三国志』魏志倭人伝であり、もう一冊が「倭の五王」の登場する『宋書』倭国伝である。『宋書』は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代(420~587年)の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、5世紀に倭国より中国に朝貢した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について書いてある。この「倭の五王」については、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まって、明治・大正・昭和の学者が「魏志倭人伝」と同様に「宋書倭国伝」の解釈に頭を悩まし続けてきた。私が作成した年表が、「宋書倭国伝」に記載された「倭の五王」に関する記事と、何の矛盾もなく通用するか、私の年表の登竜門であると考える。

私が作成した年表は、『日本書紀』の編年より、機械的に算出したものであるが、ただ1件だけ『宋書』倭国伝と整合性を取るために、恣意的に変更している。それは、允恭天皇即位の年である。機械的な算出では、反正天皇が442年1月に亡くなり、空位が1年あり、444年12月に允恭天皇が即位したことになる。空位の1年は、允恭天皇が病弱であることを理由に即位を拒み続けたためであり、12月の即位は、妃の忍坂大中姫の強い進言で即位を承諾された允恭天皇の気が変わらない内にと、即位の儀式を執り行ったためである。私は、允恭天皇が即位を拒み続けたのは、反正天皇が亡くなった442年1月から12月であったと考え、允恭天皇即位を442年12月とした。

Z-36.倭の五王(新).png私の年表の天皇の即位・崩御年と、宋書倭国伝・帝紀に記載された倭王名の記述がある朝貢年を表Z36に記載した。「讃」は仁徳天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇と比定する。以前は「珍」を履中天皇としていたが、年表作成の仕方の変更で反正天皇となった。宋に初めて朝貢したのは仁徳天皇である。日本書紀を基にした私の年表では、仁徳天皇の時代の呉(宋)との関わりを示す記事は次のようになる。カッコは日本書紀記載の年次で、応神○○年としているのは挿入記事で、書紀記載年より120年戻している。
 421年 仁徳41年(仁徳58年)呉国・高麗国が朝貢してきた
 426年 仁徳46年(応神37年)阿知使主を呉に遣わす
 430年 仁徳50年(応神41年)阿知使主が呉から筑紫に着く

表Z36の宋書倭国伝の讃の朝貢の年、421年・425年・430年の記事と年次はほぼ合っている。面白いことに、『宋書』倭国伝では讃が再々朝貢して来たとなっているが、『日本書紀』では呉の要請に応じ朝貢した形になっている。朝鮮の史書『三国史記』百済記によると、416年東晋の安帝が使者を百済に派遣し、王を冊命して「鎮東将軍・百済王」の称号を与えている。420年に建国した南朝の宋は、北朝の北魏に対抗して、自国の権勢の及ぶ範囲を拡大しておきたい事情があった。421年の倭王讃が朝貢し叙授を賜ったとする『宋書』倭国伝の記事は、『日本書紀』の記事のように、宋の武帝が使者を倭国に派遣し、叙授を与えた可能性もあると考える。


さて、「倭の五王」の比定が長年に渡って解決していないのは、表Z36に示すように、『宋書』倭国伝に記載された「倭の五王」の親子関係と、『日本書紀』に示された親子関係が一致しないためである。『宋書』倭国伝では、珍は讃の弟としている。『日本書紀』では、反正天皇(珍)は仁徳天皇(讃)の息子であり、両者は一致していない。

438年反正天皇の使いが宋に朝貢して、「昨年、兄の前王(履中天皇)が亡くなり、弟(反正天皇)が王に即位した。倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王の称号を頂きたい」と要求したと考える。宋は王(反正天皇)を「珍」と称し、「安東将軍倭国王」の称号を与えている。宋からすれば、天子(皇帝)が倭国王を冊命するのだから、一度も朝貢しなかった履中天皇の存在は知らなかったので、兄の前王は讃と理解し、「倭王讃死し、弟珍立つ、珍遣使献ず」の文章が記録されたと考える。本来「子」と記載すべきところが「弟」の間違いになったのは、履中天皇が一度も宋に朝貢していないことが原因である。

私の年表では、反正天皇
珍)、允恭天皇(済)、安康天皇(興)は、即位した年かその翌年に朝貢している。しかし、雄略天皇武)の朝貢は、即位から14年後のことである。これについては、武は上表文のなかで「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳をしている。これらにより、私の年表が如何に正確であるか、分かっていただけると思う。『日本書紀』の編年を900年縮めた私の年表は、歴史・考古学者の考える編年をはるかに超えた精度である。事実は小説より奇なりである。今後、900年縮めた私の年表を「縮900年表」と表現する。


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