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49-5.邪馬台国の女王・卑弥呼は玉依姫 [49.神話の背景には史実がある]

瓊瓊杵尊は吾田国の長屋の笠狭崎で大山祗神の娘吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫を娶り、火闌降命・彦火火出見尊・火明命の三人の子が生まれている。兄の火闌降命は海の幸を得、弟の彦火火出見尊は山の幸を得た。兄弟は幸を取替えたが、兄の火闌降命はもとの幸を取り戻そうと弟に迫った。しかし、弟の彦火火出見尊は兄から受け取った釣針を無くしてしまっていたので困窮した。彦火火出見尊は海神と出会い、失った釣針を得ることが出来た。海神の娘の豊玉姫を娶った彦火火出見尊は、海神の援助を得て兄を降伏させることが出来た。後に豊玉姫は妹の玉依姫を連れてやって来た。豊玉姫は出産の時に体が竜になり、それを見られたのを恥じて海路を帰られた。生まれた子を名付けて鸕鷀草葺不合尊という。

これらの神話は「海彦山彦」の話として、多くのページを割いて書いている。『日本書紀』は、弟の彦火火出見尊に降伏した兄の火闌降命は、吾田君小橋らの先祖、隼人の始祖である
と記載している。薩摩の古称が阿多(吾田)と呼ばれ、薩摩隼人が阿多隼人と呼ばれるように、火闌降命は薩摩国の始祖である。
Z32 免田式土器.jpg「海彦山彦」の争った「幸」を「国」の例えであると考えると説話の意味が理
解できる。海の幸を「日向国(邪馬台国)」、山の幸を「薩摩国(投馬国)」
の例えであると考える。瓊瓊杵尊の子の長男・火闌降
命は薩摩半島に進出し投
馬国を造り、次男の彦火火出見尊は宮崎平野に進出し邪馬台国を造った。投馬
国と邪馬台国は一時期領地争いがあり、「海彦山彦」の話として後世に伝わっ
たと考える。
 

弥生時代後期中頃、熊本平野に免田土器と呼ばれる、祭祀に用いられたと見ら
れる「重弧文長頸壺」の土器が出現している。この免田土器は、鹿児島県北西
部、宮崎県五ヶ瀬川流域(高千穂町)、宮崎県大淀川流域と広がり、最後に熊
本県人吉盆地、鹿児島県大口盆地の山間部で隆盛を極めている。免田土器の分
布図を図Z32に示すが、その分布は投馬国の成立に関わっているようにも見
受けられ、投馬国・邪馬台国、そして狗奴国の領域を明快に分けている。

私は、邪馬台国の女王・卑弥呼の誕生を次のように考えている。倭国大乱の頃、日向の邪馬台国の王は彦火火出見尊であった。妃の豊玉姫は妹の玉依姫を連れて嫁いで来ていた。この玉依姫は年が10歳過ぎであったが神懸かりし、物事を良く当てたので、巫女として彦火火出見尊に仕えていた。その鬼道の噂は邪馬台国ばかりか、倭国の国々にも広がった。戦いに辟易としていた倭国の国々の王から、この巫女を倭国の王にとの声があがった。

そこで、彦火火出見尊は息子の鸕鷀草葺不合尊と玉依姫を結婚させ、邪馬台国の王の座を玉依姫に譲り、玉依姫は共立されて倭国の女王となり、卑弥呼と呼ばれるようになった。鸕鷀草葺不合尊は卑弥呼に会うことが出来た唯一の人であり、飲食を給し、情報を伝えるために居室に出入りした。そして四人の男神が生まれた。彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊である。卑弥呼は人に会う事がなかったので、この秘密は守られた。子供が大きくなると、弟として国を治める事を補佐させた。

魏志倭人伝には、「鬼道に仕え、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿無し。男弟ありて、佐けて国を治む。王となりてより以来、見る有るもの少なし。婢千人を以って自ら侍らしめ、唯男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝えて出入りす。」と卑弥呼について述べている。前述の玉依姫の話は、魏志倭人伝とは「夫婿無し」と言う点で大きく違っているが、史実として在り得ない話ではないと思っている。瓊瓊杵尊が高千穂に落ち延びたのが57年とすると、卑弥呼の登場は200年ころであり、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の三代にプラス2~3世代が存在するのであろう。神話は歴史を短絡化している。


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