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47-3.倭国誕生、倭国王帥升は三代目 [47.女王・卑弥呼の誕生前夜]

Z7 糸島平野の王墓.png

『後漢書』東夷伝には「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。・・・光武賜うに印綬を以てす。」とあり、また「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とある。光武帝の建武中元二年(57年)に朝貢したのは倭奴国王で、安帝の永初元年(107年)の朝貢したのは倭国王である。これらより、倭国が57年から107年の間に誕生したことが分る。私は57年頃にイト国がナ国を統合し「奴国」が誕生したと考えている。その後、奴国は倭国連合の盟主国となり、奴国王が初代の倭国王となった。初代の倭国王の墓は方格規矩鏡が21面以上出土した井原鑓溝遺跡である。107年安帝に朝貢した倭国王帥升は、井原鑓溝遺跡に葬られた初代倭国王の孫にあたり、その墓は糸島平野にある平原遺跡1号墳と考える。この比定が正しければ、平原遺跡1号墳墓の年代は125年前後になる。

Z8.平原遺跡.jpg平原遺跡1号墳(糸島市)は昭和40年(1965年)に発見され、銅鏡39面、ガラス勾玉3個、メノウ菅玉12個、ガラス菅玉30個程度、ガラス連玉・小玉多数、ガラス耳璫2個、鉄素環頭大刀1本が出土している。平原遺跡1号墳の鏡の内訳は、内行花文鏡7面、方格規矩鏡32面、虺竜文鏡1面である。この内の内行花文鏡4面は、径が46㎝と超大型で、弥生時代としては比類ない大きさである。このような大きな鏡は中国からは出土していないこともあって、仿製(国産)鏡とされている。岡村氏は虺竜文鏡1面と方格規矩鏡1面が漢鏡4期、方格規矩鏡31面と内行花文鏡1面が漢鏡5期としている。

平原遺跡の1号墓の築造年代については、弥生時代後期の中頃(西暦100年前後)とする説と、弥生時代後期後半から終末(西暦200年前後)とする説の二つの説があった。その後の平原遺跡周辺の調査で、1号墓の南側で周溝を共有する2号墓が発見され、2号墓は1号墓とほぼ同時期に造られたと推定された。そして2号墓の南側から庄内併行期と見られる土器破片が見つかり、1号墓の造られた年代は弥生時代終末(200年~250年前後)と考えられるようになった。

Z9.平原1号墳全体図.jpg私はこの結論に疑問を持っている。平原遺跡1号墓の周溝からは、弥生後期前半と終末期の土器片が出土している。また、周溝には埋没後に掘られたと考えられている数基の土壙墓が発掘され、これらからは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している。これらからすると、周溝の弥生後期前半の土器片は1号墓が造られた直後のものであり、終末期の土器片は土壙墓が造られた頃のものと考えるのが、事実に即していると思える。しかし、周溝の土器片は無視されている。

年代の決め手になった2号墓南側から土器片は前原
(糸島)市教育委員会の資料によると、「南側の周溝を壊しているみかんの木を植えるための溝から土器片が出土」とある。2号墓の周溝には1号墓の周溝と同じような土壙墓が存在しており、この周溝に存在する弥生終末期の土器片が混入した可能性がある。倭国の歴史解明に重要な役割を果たすであろう平原遺跡1号墓の築造年代を、この土器片に託すわけにはいかない。

z1.甕棺編年1.png弥生時代中期の墳墓に副葬された鏡の型式(表Z1)をみると、漢鏡3期(紀元前100~前25年)の鏡は、紀元前100年から後25年の甕棺に副葬され、漢鏡4期(紀元前25年~後50年)の鏡は、紀元1年から100年の甕棺に副葬されている。中国で盛況な鏡を入手してから墳墓に副葬するまではいずれも50年以内で、3世代以上に渡って伝世することはしていない。平原遺跡1号墓から出土した漢鏡5期(50年~100年)の鏡からすると、築造年代は西暦50年から150年頃と比定することが出来る。平原遺跡1号墓に眠っていたのは、107年に後漢の安帝に朝貢した倭国王帥升と考え、125年頃の墳墓に副葬されたとしても、墳墓から出土した方格規矩鏡の年代、周溝から出土した土器の年代と齟齬はない。

平原遺跡1号墓の西側30mに平原遺跡5号墓がある。墳丘墓や周濠の規模は1号墓の2分の1程度で、墓壙の中央に木棺が据えられていた。主体部からの出土品はなかったが、同地から漢鏡4期(前25~後50年)の異体字銘帯および方格規矩鏡が出土している。5号墓の築造年代は、周溝から出土した土器や追葬された甕棺の型式が桜馬場式であることから、中期末から後期初頭と考えられており、私の編年表では西暦1~75年にあたる。平原遺跡5号墓の築造年代は、井原鑓溝遺跡と平原遺跡1号墓の中間である。

魏志倭人伝には「其の国(倭国)、もとまた男子を以って王となす。住まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり、すなわち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼という。」とある。七八十年続いた倭国の男子王は、井原鑓溝遺跡・平原遺跡5号墓・平原遺跡1号墓に葬られた3代の倭国王であろう。平原遺跡1号墓に眠っていたのは、107年に後漢の安帝に朝貢した三代目倭国王の帥升である。


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