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47-4.倭国大乱を解く [47.女王・卑弥呼の誕生前夜]

魏志倭人伝には、「其の國、もとまた男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年」とある。「其の國」とは倭国のことである。倭国の誕生した57年から、三代目倭国王帥升が亡くなった125年頃までが、倭国王3代で65~70年間となり、魏志倭人伝と概ね合っている。107年に後漢の安帝に朝貢した倭国王帥升は、後漢からも倭国王と認められたことから、倭国連合の範囲を広げるとともに、筑後平野に向かって領土の拡大をはかった。125年頃に倭国王帥升が亡くなり、平原遺跡1号墓に葬られると、倭国の同盟の箍(たが)が外れ、「倭国大乱」が始まったと考える。

『後漢書』東夷伝には、「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし」とある。「桓霊の間」とは147年から188年である。「歴年主なし」は倭国王がいないことを指している。倭国の盟主である奴国が領土の拡大をはかり、倭国大乱が始まると倭国連合は解消され、倭国の盟主であった倭国王は、ただの奴国王に成り下がったのである。

奴国が領土の拡大の野望を持ち、狙いを定めたのは筑後川下流域南岸である。九州の弥生式土器の中心が紀元前後を境に、福岡平野の那珂川流域の須玖式土器から、筑後平野の筑後川下流域南岸の高三潴
(たかみずま)式土器に移っている。このことは、奴国の領域である那珂川流域より、筑後川流域のほうが、稲作が盛んに行われ豊かな実りがあることを示している。奴国はこの豊穣な地域に領土を拡大しようと目論んだのである。

Z10.奴国の筑後侵出.pngイト国がナ国を滅ぼして誕生した奴国の領域は、糸島市・福岡市・春日市とその周辺で、都は糸島平野(糸島市)にあった。倭国王帥升が亡くなった後、筑後川流域に領土を拡大するため、奴国はナ国の都のあった春日丘陵(春日市)の須玖の地に都を移した。そして、春日丘陵(須玖永田・坂本・五反田遺跡)にある青銅器・鉄器・ガラス等の製造所を官営工房とした。なかでも、祭祀用いられる中広形・広形銅矛の生産は、九州のみならず中国・四国地方や対馬さらには朝鮮半島まで交易品として搬出し、奴国の経済を潤した。

しかし、青銅器・鉄器・ガラス等の工業製品は、国家を潤すことは出来るが、国家を経営するまでは至らない。コメが食料となった弥生時代の国の経済は稲作が根本である。奴国は筑後川流域への侵攻を続けた。そして、筑後平野を領土に組み込むと、奴国の都は稲作の中心地である筑後平野(八女市)に置かれた。この地は、佐賀平野東部(吉野ヶ里遺跡)や肥後菊池川流域(方保田東原遺跡)を牽制する場所でもあった。

Z11.広形矛の分布.png弥生後期後半の遺跡では、漢鏡を複数面副葬した墳墓は無い。奴国の都を示す考古学的な手掛かりとして、祭祀に用いたと思われる中広形・広形銅矛に注目する。北部九州においては中広形・広形銅矛は墳墓から出土することはない。出雲の神庭荒神谷遺跡のように、集落から離れたところに土壙を掘って、1本あるいは複数本が埋納されている。中広形・広形銅矛の出土地と本数を調べると、福岡平野山側(春日市・那珂川町)が45本、筑後川下流南側(八女市・広川町)が35本、佐賀平野東部(北茂安町・三田川町)が17本で際立っている。奴国誕生の地で倭国王3代の墳墓がある糸島平野からは、1本の中広形・広形銅矛も出土していない。春日市近辺・八女市近辺に奴国の都があった証拠になると考える。

奴国は筑後平野を領土に組み込み、都を春日丘陵から筑後平野(八女市・その近郊)に遷した。奴国の支配地は福岡平野と筑後平野におよび豊穣を手に入れ、春日丘陵での広形銅矛・鉄器・ガラスの製作で発展し、近隣諸国の中では突出して大きな国となったが、元の倭国連合国の国々の信頼を取り戻すことは出来ず、再び倭国の盟主国に返り咲くことは出来なかった。戦いに辟易とした国々が倭国王に共立したのは、邪馬台国の女王・卑弥呼であった。


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