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47-2.ナ国はイト国に滅ぼされた [47.女王・卑弥呼の誕生前夜]

Z2.甕棺編年2.png

表Z2には中国の史書に書かれた倭国の様子と、その時代の北部九州の主要な遺跡を掲載した。ピンク色は福岡平野とその周辺の遺跡、黄色は糸島平野の遺跡、緑色は唐津湾周辺の遺跡、水色は佐賀平野東部の遺跡である。ピンク色の春日市の須玖岡本遺跡D地点からは30数面の前漢鏡が出土しており、須玖岡本遺跡は「奴国」の王墓と考えられている。黄色の糸島市の三雲南小路1号甕棺からは35面の前漢鏡が、2号甕棺からは22面の前漢鏡が出土しており、三雲南小路遺跡は「伊都国」の王墓と考えられている。魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島平野(糸島市)、奴国は福岡平野(福岡市・春日市とその周辺)としている。

しかし、これらの遺跡の年代は、倭の国々が楽浪郡に献見した紀元前100年~前50年の頃のことで、卑弥呼の登場より250年以前のことである。奴国の領域とされる福岡平野とその周辺には、西暦57年に「奴国」が後漢の光武帝より印綬を賜って以降、ピンク色の王墓・首長墓の遺跡は存在していない。卑弥呼の時代の「伊都国」・「奴国」を三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡で代表させる訳にはいかない。そのため、魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」が誕生するまでは、「伊都国」と呼ばれている国は
Z3.志賀島金印出土地.jpg「イト国」、「奴国」は「ナ国」と表記する。

弥生時代の倭国の歴史を解明するキーポイントは、江戸時代に志賀島の小さな石囲いから出土した「漢委奴国王」金印である(図Z3)。志賀島から出土した「漢委奴国王」金印は、『後漢書』東夷伝に「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」とあることから、光武帝より賜った金印であることは明白で、問題は金印の出土地、その埋納の仕方が異常であることだ。

Z4.井原鑓溝鏡拓本.png方格規矩鏡が21面以上出土した井原鑓溝遺跡(糸島市:イト国)は江戸時代に発見された遺跡だが、幸いなことに福岡藩の国学者青柳種信が鏡の拓本を採っていた。その拓本からは方格規矩鏡に「漢有善」・「新」・「武順陰陽」・「桼言之」の銘があることが読み取れた(図Z4)。漢鏡研究の第一人者である京都大学教授の岡村秀典氏は、著書『三角縁神獣鏡の時代』で、「漢」は前漢王朝、「新」は王莽の新王朝を指し、「桼」は王莽代に用いられた「七」の別表記であるとして、井原鑓溝遺跡の鏡は紀元前後から王莽の新代にかけての漢鏡4期(紀元前25~後25年)に位置づけられ、『後漢書』王莽伝にある「東夷の王、大海を渡りて、国珍を奉ず」の時代のものとしている。

Y19.漢有善銅.jpg私が台湾の故宮博物館で購入した『中華五千年文物集刊 銅鏡篇上』には、浙江省紹興縣出土の「漢有善銅博局紋鏡」が東漢(後漢)早期の鏡と記載されている。「博局紋鏡」とは方格規矩鏡のことである。この鏡の銘文は「漢有善銅出丹陽・・・左龍右虎備旁 朱爵玄武順陰陽・・・」であり、井原鑓溝遺跡出土の鏡と同じ銘文である。鏡の銘文を写真(図Z5)で見ると「四」の字は「亖」の字であった。「亖」の字は「桼」と同じように、王莽代に用いられた「四」の別表記である。

中国の甘粛省酒泉にある居延烽燧遺跡から発見された前漢代・後漢代の木簡「居延漢簡」には、光武帝建武7年を示す「建武年六月」の紀年銘が書かれた木簡がある。また、中国社会科学院歴史研究所の「謝桂華先生木簡学成就」という
Webサイトを見ると「“亖”とか“桼”の字は、王莽時代に使用が開始され、東漢(後漢)の光武帝建武年間まで継続使用された。」と書かれ、その証拠として「建武五年月」という木簡が存在していると書いてある。これらより、「漢有善銅」銘文の方格規矩鏡は、後漢の光武帝建武年間(西暦25~55年)に製作された鏡であると言える。岡村氏が「紀元前25~後25年」とされる漢鏡4期の鏡は「紀元前25~後50年(正確には55年)」である。イト国王の墓とされる井原鑓溝遺跡の方格規矩鏡は、ナ国が建武中元2年(西暦57年)光武帝より金印と一緒に賜った鏡であると結論付けることが出来る。

Y20.光武帝金印と鏡.png後漢の光武帝よりナ国が下賜された金印が志賀島から出土し、鏡がイト国の王墓・井原鑓溝遺跡から出土する。この謎を私は次のように考える。イト国王はナ国王が後漢の光武帝に使いを遣わしたと知ると、先を越されたと脅威を感じたのであろう。ナ国の使いは光武帝に自らを「大夫」と名乗ったようにナ国の重臣であった。ナ国の重臣が後漢の都・洛陽に行っている隙をついて、イト国王はナ国を滅ぼし、イト国とナ国を合わせた「奴国」が誕生したと考える。ナ国の滅びたことを知らず帰国した重臣は、イト国に船を接収されて鏡を奪われた。重臣は金印のみを持って脱出し志賀島に隠匿した。ナ国王は金印を手にすることが無かったのである。

こう考えると、金印の出土地が志賀島の狭隘な場所で、金印のみが石で囲われて埋納されてあったことも、ナ国の領域においては後漢の光武帝に朝貢した57年以降に王墓に相当する墳墓がないことも、そして、ナ国の領域に光武帝から賜ったであろう漢鏡4期の鏡が出土しないことも、イト国の井原鑓溝遺跡から光武帝建武年間に作られた方格規矩鏡が21面以上も出土することなど全ての説明が付く。

z1.甕棺編年1.png表Z1で注目すべきことは、57年に奴国が後漢に朝貢したあと、卑弥呼が倭王に共立され倭国大乱(147~188年)が終わるまでの間、墳墓に鏡を副葬しても鉄製武器は副葬していないことである。武器や鏡を墳墓に副葬することは、長年行われてきた風習であるが、戦いに備えて武器を温存したと考えられる。これは57年頃にイト国がナ国を滅ぼし、各国に緊張が走った証拠である。


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