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46-4.奴国は筑紫平野に侵出した [46.倭国誕生から倭国大乱まで]

Y25 奴国の筑後侵出.png

『後漢書』東夷伝には、「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし」とある。「歴年主なし」は倭国王がいないことを指している。倭国の盟主である奴国が領土の拡大をはかり、倭国大乱が始まると倭国連合は解消され、倭国の盟主であった倭国王は、ただの奴国王に成り下がったのである。イト国がナ国を滅ぼして誕生した奴国の領域は、糸島平野と福岡平野(糸島市・福岡市・春日市)とその周辺で、都は糸島平野(糸島市)にあった。奴国が領土の拡大の野望を持ち、狙いを定めたのは筑後川流域である。

九州の弥生式土器の中心が紀元前後を境に、那珂川流域の須玖式土器から、筑後川下流域南岸の高三潴式土器に移っている。このことは、奴国の領域である那珂川流域より、筑後川流域のほうが、稲作が盛んに行われ豊かな実りがあることを示している。奴国はこの豊穣な地域に領土を拡大しようと目論んだのである。そこで、奴国は筑後川流域へ侵攻の最前線となる、ナ国の都があった春日丘陵の須玖の地に都を移した。春日丘陵(須玖永田・坂本・五反田遺跡)では青銅器・鉄器・ガラス等を生産する官営工房を設けた。なかでも、祭祀用いられる中広形・広形銅矛生産は、九州のみならず、中国・四国地方や対馬さらには朝鮮半島まで交易品として、博多湾(西新遺跡)から搬出し奴国の経済を潤した。

しかし、青銅器・鉄器・ガラス等の工業製品は、国家を潤すことは出来るが、国家を経営するまでは至らない。コメが食料となった弥生時代の国の経済は稲作が根本である。考古学者が須玖遺跡群をテクノポリス、奴国の首都としているのは、現代人の感覚ではないだろうか。奴国は筑後川流域への侵攻を続けた。そして、筑後平野を領土に組み込むと、奴国の都は稲作の中心地である筑後平野(八女市)に置かれた。この地は、佐賀平野東部(吉野ヶ里遺跡)や肥後菊池川流域(方保田東原遺跡)を牽制する場所でもあった。


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たのしか

この地図を当サイトに肥沃な土地で野菜を育てているのだという証明に引用させていただいてもよろしいでしょうか?
by たのしか (2018-06-19 14:49) 

t-tomu

私自身で作成した図表等の引用は了解しておりますが、写真・地図等は私が引用したものが多くお断りしております。
by t-tomu (2018-06-19 18:17) 

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