46-3.奴国の野心が倭国大乱の引き金 [46.倭国誕生から倭国大乱まで]
『三国志』魏志倭人伝には、「其の國、もと亦男子を以て王と為す。住まること七・八十年。倭國乱れ、相攻伐すること年を歴たり。」とある。「其の國」とは倭国のことである。ナ国王が後漢の光武帝に重臣を遣わした隙をついて、西暦57年にイト国がナ国を滅ぼし奴国が誕生した。そして奴国が盟主国となる倭国連合(北部九州)が誕生し、奴国王が倭国王となった。この倭国王は65年頃亡くなり井原鑓溝遺跡に葬られ、倭国王を継いだ息子は平原遺跡5号墓に葬られた。孫にあたる倭国王帥升は、107年に後漢の安帝に朝貢した。王帥升は後漢からも倭国王と認められたことから、倭国連合の範囲を広げると共に、筑後平野に向かって領土の拡大を図った。
125年頃に倭国王帥升が亡くなり、平原遺跡1号墓に葬られると、倭国の同盟の箍(たが)が外れ、「倭国大乱」が始まったと考える。倭国の誕生から倭国大乱までが、西暦57年から125年となり、倭国王3代で65年間、「其の國、本亦男子を以て王と為し、住まること七・八十年」と概ね合っている。倭国王3代の王墓は、井原鑓溝遺跡・平原遺跡5号墓・平原遺跡1号墓である。『後漢書』東夷伝には、「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし」とある。桓帝の在位は147~167年、霊帝は168~1881年で、「桓霊の間」とは、147年から188年である。
図Y12に示すように、鉄製武器が甕棺に副葬されるようになるのは紀元前50年頃、立岩(新)式(KⅢc)の時代からで、細形銅剣に取って代わっている。しかし、桜馬場式(KⅣb)と三津永田式(KⅣc)の時代には鉄製武器が甕棺に副葬されていない。甕棺が日佐原式(KⅤ)の時代は、北部九州の墓制は糸島地域を除いては甕棺墓が無くなり、箱型石棺墓・土壙墓や墳丘墓(木棺)となっている。これらの時代の鉄製武器の墳墓への副葬は、『考古資料大観 第10巻』の「弥生時代および古墳時代初期首長墓副葬品一覧」によると、26遺跡・28本である。この内、16遺跡18本は後期末(175~250年)である。残りのものは年代が「後期」となっており、後期の前葉・中葉・後葉のいずれか不明である。西暦50年から175年までは、墳墓に鉄製武器を副葬したのは平原遺跡1号墳だけで、その他の墳墓は副葬していなかったと考える。
鉄製武器が墳墓に副葬されていないことは、鉄製武器が無かったのではなく、戦いに必要な鉄製武器を墳墓に副葬する余裕が無かったからだ。西暦57年にイト国がナ国を滅ぼし奴国が誕生し、奴国が倭国の盟主国にのし上がると、倭国の国々は同盟を結ぶ一方で、奴国への警戒のため戦いへの備えが始まり、鉄製武器を墳墓に副葬することが無くなったと考える。平原遺跡1号墳に素環状大刀が1本副葬されているのは、倭国王帥升の墓であるからだ。125年倭国王帥升が亡くったあと、倭国連合の箍(たが)が外れ「倭国大乱」が始まった。鉄製武器を墳墓に副葬することが再び始まったのは、卑弥呼が共立され「倭国大乱」が終わった弥生後期末である。
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