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46-5.広形銅矛で行った奴国の祭祀 [46.倭国誕生から倭国大乱まで]

Y26.広形矛の分布.png

西暦50年以降の奴国の都が糸島平野(糸島市)から春日丘陵(春日市)、そして筑後川下流域南岸(八女市)に移って行ったことを考古学的に証明できるであろうか。弥生時代後期後半は墳墓に漢鏡5期・6期の舶載鏡や仿製鏡が副葬されている。奴国の領域で舶載鏡を副葬する墳墓が9遺跡・9面、仿製鏡を副葬するのが3遺跡・3面である。これらの墳墓の中に、王墓があるようには思えない。奴国の都を探す手掛かりとして、祭祀に用いたと思われる中広形・広形銅矛に注目する。対馬では弥生後期後半の石棺墓に中広形・広形銅矛が副葬されている。しかし、北部九州においては中広形・広形銅矛は墳墓から出土することはない。出雲の神庭荒神谷遺跡のように、集落から離れたところに土壙を掘って、1本あるいは複数本が埋納されている。

中広形・広形銅矛の出土地と本数について、『青銅の武器』九州歴史資料館
(1980)、『弥生時代の武器形青銅器』吉田広(2001)をもとに調べ、図26に分布を示した。福岡平野山側(春日市・那珂川町)が45本、筑後川南側(八女市)が35本、佐賀平野東部(北茂安町・三田川町)が17本で際立っている。奴国誕生の地で倭国王3代の墳墓がある糸島平野からは、1本の中広形・広形銅矛も出土していない。春日市近辺・八女市近辺に奴国の都があった証拠になると考える。

『日本書紀』継体天皇21年(529年)に筑紫国造磐井が反乱を起こし、翌年には物部麁鹿
(あらかい)に鎮圧された。そして、息子の筑紫君葛子は連座で誅されることを恐れて、糟屋の屯倉を献上したとある。福岡市の東に隣接する粕屋郡古賀町(古賀市)の鹿部田渕遺跡は「糟屋の屯倉」の候補地とされている。また、『筑紫風土記』には、上妻縣の南二里に筑紫君磐井が生前に造った墓があり、石人や石盾が四方にめぐらされ、東南の別区には石人と石猪があると書いている。八女市にある全長180mの前方後円墳、岩戸山古墳には石人・石馬・別区などがあり、筑紫君磐井の墓とされている。

筑紫国造磐井の支配地域は、筑紫(筑前国+筑後国)であったと考えられる。「国造」については諸説あるが、私は弥生時代地方を支配していた国王(豪族)が、大和朝廷の支配下に組み込まれるとき、国造となって
地方を治めたと考える。筑前国と筑後国の国造は「筑紫」のみである。因みに、肥前国は4、肥後国は4、豊前国は2、豊後国は3の国造がある。筑紫の国造は非常に大きいことが分る。筑紫国造の前身は奴国であり、奴国の都は筑後川下流域南岸(八女市)にあったと考える。

歴代の倭国王を搬出した奴国が、領土拡大の野心を持つと、倭国連合の
(たが)が外れ「倭国大乱」が始まった。この大乱は北部九州から始まり、九州全土・中国西部に広がっていったと考えられる。奴国が筑後平野を領土に組み込み豊穣を手に入れ、春日丘陵での広形銅矛・鉄器・ガラスの製作で発展したが、近隣諸国の信頼を取り戻すことは出来ず、再び倭国の盟主国に返り咲くことは出来なかった。戦いに辟易とした国々が倭国王に共立したのは、邪馬台国の女王・卑弥呼であった。


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