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45-3.三雲南小路遺跡はイト国の王墓 [45.金印の謎を解く]

Y13.三雲南小路雷文鏡.jpg

糸島市にある三雲南小路1号甕棺は、1822年(文政5年)に採土中に発見された。筑前藩の国学者青柳種信は『柳園古器略考』と『筑前国怡土郡三雲村古器図説』を著し、主要遺物の詳細な記録を残している。遺物は前漢鏡35面、有柄銅剣1本・銅矛2本・銅戈1本、ガラス壁8個・ガラス勾玉3個・ガラス管玉100個以上、金銅四葉座飾金具8個および朱がつまった小壺であった。1975年(昭和50年)に福岡県教育員会の発掘調査でその甕棺遺構を再確認している。その調査で発見された鏡片は、図13に見られるように、青柳種信の記録とピッタリ一致していた。岡村秀典氏によれば、1号甕棺の前漢鏡は31面が復元され、それらは漢鏡2期(前2世紀後半)が2面、漢鏡3期(前1世紀前半から中ごろ)が29面で、鏡径は18~16㎝であるそうだ。

1975年の発掘調査で甕棺(1号)のすぐ西北に並列する、新たな甕棺(2号)が現れた。2号甕棺からは前漢鏡22面以上、ヒスイ勾玉1個、ガラス勾玉12個、ガラスペンダント(壁片)1個と朱が多量副葬されていた。2号甕棺の22面は全て漢鏡3期の鏡で、鏡径は11~6㎝と1号甕棺より小ぶりの鏡であるそうだ。

Y14.三雲南小路2号甕棺.png三雲南小路1号甕棺の型式は立岩()式(Kb)で、甕棺の型式も、副葬された遺物の種類も、前漢鏡の型式も、王権の象徴の壁も「ナ国の王墓」と考えられた須玖岡本D遺跡と全く同じで、三雲南小路1号甕棺は「イト国の王墓」と考えられている。2号甕棺の型式は立岩()式(Kc)であり、1号甕棺より1段階新しい甕棺型式となっている。1号甕棺には青銅武器と壁があるが、2号甕棺にはそれらが無いこと、2号甕棺の鏡の径が1号甕棺の鏡に比べて小さいこと等から、2号甕棺の被葬者は1号甕棺のイト国王の后の墓と考えられている。イト国王は紀元前50年の少し前に、后は紀元前50年の少し後に埋葬されたと考える。須玖岡本D遺跡の「ナ国の王墓」も、三雲南小路1号甕棺の「イト国の王墓」も、卑弥呼の時代より250年以上も前の王墓である。魏志倭人伝に書かれた「奴国」・「伊都国」の説明に、須玖岡本D遺跡・三雲南小路1号甕棺を引き合いに出すには、余りにもかけ離れている。


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