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45-2.須玖岡本遺跡はナ国の王墓 [45.金印の謎を解く]

魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島市、奴国は福岡市・春日市とその周辺としている。私は伊都国・奴国の都は、これらの地ではなかったと考えている。そのため、魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」が誕生するまでは、「伊都国」と呼ばれている国は「イト国」、「奴国」は「ナ国」と表記する。

Y12甕棺副葬品の年代.pngY-12に甕棺の編年表に、主要な副葬品が埋納された年代(甕棺型式)を記した。表Y-12を見て一番に気付くことは、前漢鏡(漢鏡3期)の鏡が紀元前100年~50年の立岩()式(KⅢb)の甕棺に副葬されていることだ。前漢の武帝は、紀元前108年に朝鮮を平定し、楽浪郡を設置している。そして、『前漢書』地理史に「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って来たり、献じ見ゆ」と書かれており、倭国の国々は楽浪郡の設置後すぐに、接触を試みたと思われる。この時に手に入れたのが漢鏡3期(前1世紀前半から中ごろ)の鏡であったと思われる。楽浪郡を訪れた国々の王墓は、須玖岡本D遺跡(春日市)、三雲南小路1号甕棺(糸島市)がKb(前100~前50年)の時代で、三雲南小路2号甕棺(糸島市)、立岩
10号甕棺(飯塚市)が
Kc(前50年~前1年)の時代である。

春日市にある須玖岡本
D遺跡(Kb)は、1899年(明治32年)に土地の所有者が大石(3.x.x.m)を動かしたところ、多くの副葬品を伴う甕棺が出土した。これらの遺物はその近くに埋め戻されたが散逸してしまった。その後、九州大学の中山平次郎氏や京都大学等の調査により、遺物は前漢鏡30数面、中細形銅剣・多樋剣・細形矛・中細形矛・中細戈の計8本以上、ガラス壁・ガラス勾玉・菅玉であることが分った。須玖岡本D遺跡の大石を持つ甕棺墓は「ナ国」の王墓と考えられている。

岡村秀典氏は復元された29面の鏡を、漢鏡2期(前2世紀後半)が3面、漢鏡3期(前1世紀前半から中ごろ)が26面としている。須玖岡本
D遺跡の甕棺型式は立岩()式(Kb)で、年代は紀元前100年~50年である。これらからすると、漢鏡3期の鏡が前漢で盛況であった時期に倭国の甕棺に埋納されていたことになる。鏡の入手から甕棺に埋納するまでのタイムラグ(時間のずれ)を考えると、漢鏡3期の鏡は立岩()式(Kb)の後半、紀元前75年~50年に甕棺に副葬されたと考えられる。私の編年表の年代は、楽浪郡設置・『前漢書』地理史・前漢鏡年代と何の齟齬もない。倭の国々は中国で盛況である鏡を楽浪経由で手に入れ、伝世することなく墓に埋納していることは注目に値する。


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