45-4.金印はなぜ志賀島から出土したか [45.金印の謎を解く]
『後漢書』東夷伝には「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」とあり、西暦57年(建武中元二年)に「倭奴国」が使いを遣わし、後漢の光武帝より印章を下賜されたと書かれている。江戸時代の天明4年(1784年)に博多湾の出口にある志賀島から「漢委奴国王」の銘のある金印が出土した。金印が出土した状況は、発見者の甚兵衛の口上書に「叶の崎という所の私の田地、田の境の溝の水の流れが悪く、先月23日に溝の形を仕直そうと岸を切り落としていたところ、小さな石がだんだん出てきて、その内二人持ちほどの石が有り、金梃子で堀り除いたところ、石の間に光るものが在るので、取り上げ水にすすいだところ、金の印判のような物でした」とある。甚兵衛の口上書からは、金印は単独で出たのであって、その他の遺物は無かったなかったことが分る。
金印が出土した「叶の崎」という地名は現在ないが、その推定地が金印公園になっている。当時、福岡藩校の館長であった亀井南冥は、金印発見直後に金印を鑑定し、後漢の光武帝が授与した印と看破している。この南冥が書いた絵図(Y 15 )にある金印発見の場所(点線の丸囲みの部分)が金印公園の地である。この地は狭隘な土地であるので金印を埋納するにはふさわしくないと、この地から500m離れた”叶の浜”ではないかとの異説もある。
亀井南冥は『金印弁』の中で「唐土の書に本朝を倭奴国とある。”委”の字は”倭”の字を略したもの」としている。そして、「”奴”の字は華音では”の”と読める」として、金印の「委奴国王」を「倭の国王」と呼んでいる。金印の「委奴国王」を「委奴(イト)国王」と読む学者も少なくないが、光武帝より印綬を賜ったのが「倭奴国」であり、「倭の奴(ナ)国王」と読むのが通説である。この「奴国王」こそ、「ナ国の王墓」とされる玖岡本D遺跡に眠る王の末裔であろう。
「漢委奴国王」金印については、「委奴国王」の読み方だけでなく、なぜ辺鄙な志賀島から異例な状態で出土したのかについて、江戸時代から現在まで百家争鳴である。金印が志賀島から出土した理由について種々の説がある。そのひとつが墳墓副葬説であるが、これは金印以外のものが出土していないことから否定的である。有力視されているのは、中山平次郎氏がとなえた奴国の没落による金印隠匿説、水野祐氏の志賀海神社の祭祀施設とした磐座説、森貞次郎氏の朝鮮と本土の航海安全を祈願した祭祀施設である。金印が発見されて200年経つが、まだ人々を納得させるだけの説がなく、その謎はまだ解かれていない。
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