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41-3.古墳時代中期の始まりを考える [41.古墳時代の3期区分を考える]

K15古墳3期区分.jpg古墳研究の専門家は古墳時代(前方後円墳)の区分を「集成編年」の10期に分けて考えているが、アマチュアにとっては古墳時代の区分は、前期・中期・後期と三段階に分けて考える方が理解し易く、時代の特徴を掴みやすい。私の頭の中には、古墳時代の前期は三角縁神獣鏡の時代、中期は須恵器と馬具の時代、後期は横穴式石室の時代とインプットされている。三期に区分する場合、研究者によって若干違うようであるが、「集成編年」の基準を作成された広瀬和雄氏の2000年以降の著書に示された区分を表15にまとめてみた。中期の始まりは、集成編年の5期・円筒埴輪Ⅲ式の時代であるが、須恵器TG232の登場は円筒埴輪Ⅲ式の後半で、中期の始まりは須恵器の登場の前になっている。

中期の始まりを集成編年5期にしているのは、広瀬氏ばかりではなく、大方の研究者も同様である。『前方後円墳集成』にある編年基準の5期の定義は、「円筒埴輪のⅢ式、同種多量の滑石製農工具が顕著となる。鉄鏃は4期出現の型式が、また短甲は三角板革綴・長方板革綴型式がそれぞれ主体を占める。銅鏃・筒形銅器・巴形銅器・石製腕飾類などは4期で消滅し、この時期には続かない。」とある。

考古学での時代区分は「画期」(過去と新しい時代を分けること。その区切り。)であるべきだ。5期には考古学的な「画期」がないと思われる。鉄鏃も短甲も4期と同じであり「画期」ではない。銅鏃・筒形銅器・巴形銅器・石製腕飾類が4期で消滅し5期にないのは「画期」であるが、このことをもって時代を区分することは出来ない。なぜなら、たとえば三角板革綴短甲と筒形銅器が共伴している場合は4期と言えるが、三角板革綴短甲だけが出土した場合、4期とも言えるが5期とも言える。5期の時代区分の頼りは円筒埴輪のⅢ式だけなのである。

考古学的に画期でない集成編年5期が、なぜ中期の始まりとされたのか、それは墳丘長が200mを越す巨大古墳が河内に造られ始めた時期であるからだ。墳丘規模(墳丘長)で全国第9位(286m)の仲津媛陵古墳が古市古墳群に、第3位(365m)の履中天皇陵古墳が百舌鳥古墳群に登場する。両者とも円筒埴輪はⅢ式で、集成編年5期にあたる。ちなみに河内に最も早く造られた巨大古墳は第27位(208m)の津堂城山古墳で、円筒埴輪Ⅱ式・集成編年4期である。三角板革綴・長方板革綴短甲の武具の出現を中期の始まりと考え、津堂城山古墳を中期に入れておられる学者の方もおられる。

5期に巨大古墳が造営されたのは河内だけではない。吉備(岡山市)に墳丘規模第4位(360m)の造山古墳が、上野(群馬県太田市)には26位(210m)の大田天神山古墳が造られている。巨大古墳の造営が河内や吉備・上野(かみつけの)へ波及したことは、古墳時代の政治的な画期ではあるが、考古学的に画期のない集成編年5期を古墳中期の始まりとして取り扱うことは、古墳の年代比定に混乱が生じていると思う。そして、それは古代史の解明に大きな妨げになっていると考える。


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