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39-6.大宰府管轄の「縣」が大宝律令まで存在 [39.『風土記』は史実を語っているか]

乙類逸文の最大の特徴は、行政区分の表記が「縣」であるにも関わらず、乙類風土記の成立年代の論議に、この「縣」がほとんど取り上げられていないのが不思議でならない。多くの研究者は、風土記の成立は和銅6年(713年)の風土記編纂の官命以後であり、地名に「縣」が付くことはあり得ないと無視されておられるのだろうか。また、『書紀』の地名表記の「縣」を真似したと捉えているのだろうか。乙類の天皇名の表記は『書紀』とは異なっており、乙類の述作者が『書紀』の地名表記の「縣」を真似したとは思えない。「縣」が乙類風土記の成立年代の解明に光明を与えてくれるように思える。 

甲類九州風土記と乙類九州風土記には共通の地名がある。甲類の行政区分は「郡」で、乙類の区分は「縣」である。
            甲類     乙類 (*印は逸文)
    筑前国風土記  *怡土郡  *逸都縣(筑紫風土記)
    肥前国風土記   松浦郡  *松浦縣
    肥前国風土記   杵嶋郡  *杵島縣

続日本紀には、天平12年(740年)に藤原廣嗣の反乱の件で、宝亀6年(775年)・宝亀9年(778年)に遣唐使船の出入港の件で、肥前国松浦郡の地名が登場する。奈良文化財研究所のサイト木簡字典で調べると、平城京跡から「養老7年」(723年)の年号と「筑前国怡土郡」の地名が記された荷札が出土している。なお、年代はないが「肥前国杵島郡」の木簡も出土している。これらからして、九州風土記乙類に書かれた「逸都縣・松浦縣・杵島縣」の存在は、大宝2年(702年)の大宝律令施行以後はなかったと思える。
 

「縣」という概念は、大宝律令施行以後は全く無くなったのだろうか。続日本紀によると、天平宝字5年(761年)に「北京を造らぬと議る。・・・都に近き両を割きて、永く畿とし、庸を停めて調を輸すべし。その数は京に准へよ」とあり、「二(滋賀郡・栗太郡)を保良京(平城京の北の都・北京)の畿とし、畿内に準ずる地とする」と解釈されている。大宝律令施行以後でも、朝廷の直轄地として「県
()」の概念が残っている。乙類の「縣」表記を無視するわけにはいかないと考える。 

大化改新(646年)以後、それまで国造が治めていた「国」と、県主が治めていた「縣
」は解体され、地方の行政区分は国評制となり、大宝律令施行(702年)から国郡制となって行ったと考えられている。地方の豪族(国造)が治めていた「国」、および豪族化した県主が治めていた「縣」の解体は、律令制度確立のため強制的・強圧的に行われたであろうが、大和朝廷が管轄する「縣」の解体は遅れていたと考える。租庸調の税制が確立するまでは、朝廷は直轄地を手放すことが出来なかったのではないかと思う。筑紫大宰府では新羅や唐の饗応の費用や防人の費用を賄っていた為、筑紫大宰府の管轄する「縣」は、大化の改新以後も、大宝律令施行まで存在していたと考える。九州風土記乙類に記載された行政区分の「縣」は、筑紫大宰府の管轄する「縣」であったと考える。
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