39-5.九州風土記の甲・乙の分類 [39.『風土記』は史実を語っているか]
九州風土記の成立年代の研究は混沌としているが、その議論はそれほど難しいことを言っているようでもなく、その成立年代の解明は、私の手の届く範疇にあるように思えた。まず初めに甲類・乙類の分類を自分自身で行ってみた。現存する『豊後風土記』と『肥前風土記』以外の諸国(筑前・筑後・豊前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐)の風土記は、他の本に引用されている逸文に頼るしかない。その逸文も引用時に後世の手が加わっている場合もある。九州風土記の成立年代の研究の信頼性を上げるために、風土記逸文引用文献の双璧である、鎌倉時代のト部兼方が著した『釋日本紀』と仙覚が著した『萬葉集註釋』に引用されている逸文のみを選んだ。
『釋日本紀』と『萬葉集註釋』が引用している逸文の中にも、天皇名の漢風諡号(崇神天皇・景行天皇)が表記された逸文がある。漢風諡号は奈良時代の天平宝字6年(762年)頃に淡海三船が命名したものであり、これらは和銅6年(713年)の風土記編纂の官命に関わる風土記の逸文ではないとして除外した。平安時代の延長3年(925年)に太政官符で「諸国に風土記の文があると聞いている。国宰はこれを調べて、風土記があれば提出せよ。もしなければ、部内を探求し、古老に尋ね問い、早急に提出せよ。」との官命が下っている。天皇名を漢風諡号したものは、この時に提出された後世の手が加えられた風土記であると思う。また、前項で取り上げた「西海道節度使」の逸文もこの時のものではないかと考える。
九州風土記の甲類と乙類の区分けは、乙類が「縣」、甲類が「郡・郷」で行った。「郡・郷」の表記がなくとも、天皇名の表記が『日本書紀』と同じもの、また、国の謂れ等を書いた「総記」が『豊後風土記』・『肥前風土記』と同じものは甲類とした。甲類・乙類の逸文を表D19に示す。なお、表にある「標題」は日本古典文学大系のものを引用した。
九州風土記の甲類には『日本書紀』の景行紀・仲哀紀・神功紀の文章とほとんど同一のものがある。それらを表D20に示す。書紀の文章は甲類の文章とほとんど同一であるが、地名の表記は乙類と同じ「縣」である。このことが、九州風土記の甲類と乙類の成立年代の比定を混沌とさせている原因であるのかもしれない。
『釋日本紀』と『萬葉集註釋』が引用している逸文の中にも、天皇名の漢風諡号(崇神天皇・景行天皇)が表記された逸文がある。漢風諡号は奈良時代の天平宝字6年(762年)頃に淡海三船が命名したものであり、これらは和銅6年(713年)の風土記編纂の官命に関わる風土記の逸文ではないとして除外した。平安時代の延長3年(925年)に太政官符で「諸国に風土記の文があると聞いている。国宰はこれを調べて、風土記があれば提出せよ。もしなければ、部内を探求し、古老に尋ね問い、早急に提出せよ。」との官命が下っている。天皇名を漢風諡号したものは、この時に提出された後世の手が加えられた風土記であると思う。また、前項で取り上げた「西海道節度使」の逸文もこの時のものではないかと考える。
九州風土記の甲類と乙類の区分けは、乙類が「縣」、甲類が「郡・郷」で行った。「郡・郷」の表記がなくとも、天皇名の表記が『日本書紀』と同じもの、また、国の謂れ等を書いた「総記」が『豊後風土記』・『肥前風土記』と同じものは甲類とした。甲類・乙類の逸文を表D19に示す。なお、表にある「標題」は日本古典文学大系のものを引用した。
九州風土記の甲類には『日本書紀』の景行紀・仲哀紀・神功紀の文章とほとんど同一のものがある。それらを表D20に示す。書紀の文章は甲類の文章とほとんど同一であるが、地名の表記は乙類と同じ「縣」である。このことが、九州風土記の甲類と乙類の成立年代の比定を混沌とさせている原因であるのかもしれない。
2014-03-28 00:00
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