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39-7.乙類風土記の述作者は三野王 [39.『風土記』は史実を語っているか]

私は永年のサラリーマン生活の中で、長らくに渡って解決していない問題には、発想の転換を計ることが必要であると学んできた。九州風土記の研究者は、「風土記の成立は和銅6年5月の風土記編纂の官命以降であるはずである」との呪縛に捉われ、乙類風土記の「縣」の重みを無視している。私は、地方名に「縣」を記す乙類風土記の編纂は、大宝律令施行(702年)以前に行われたと考える。 

話はもう一昔前に戻るが、『日本書紀』の天武10年(681年)3月に、天武天皇が大極殿にお出ましになり、「帝紀」と「上古諸事」を記録し定めるようにと、川島皇子以下13名に詔を発している。その時の13名は、「川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首」である。13名の中の三野王は、持統天皇8年(694年)9月に、冠位は「浄広肆」を授かり筑紫大宰率に就任し、文武4年(700年)まで務めている。
 

この三野王は、壬申の乱で活躍した美濃王と混同(日本書紀も混同)されることが多いので明確にしておく。天武2年12月、天武4年4月には「小紫美濃王」と天武11年3月に「小紫三野王」と登場するのが美濃王で、その冠位は「小紫」であり、大宝律令の官位で言えば「従三位」の高官である。持統8年に筑紫大宰率に就任した三野王の冠位は「浄広肆」で大宝律令の官位で言えば「従五位下」で、「小紫」より8階級低い。なお、天武10年3月の「帝紀」と「上古諸事」を記録し定める詔を受けた竹田王は持統3年に、廣瀬王は持統6年に「浄広肆」の冠位を授かっている。これからして、竹田王・廣瀬王と一緒に詔を受けた三野王は、持統天皇8年9月に「浄広肆」の冠位を授かり筑紫大宰率に就任した三野王であると言える。
 

三野王(美努王)の父は栗隈王で、天智10年(671年)6月に筑紫宰となり、壬申の乱においては筑紫にいて近江方の命令を拒否している。その時、三野王は太刀を佩き父・栗隈王の側にいて守ったと『書紀』は記載している。栗隈王は天武5年(676年)6月に亡くなっているが、その年の9月に次の筑紫大宰が就任しており、栗隈王は亡くなるまで筑紫大宰を務めたのであろう。
 

栗隈王が赴任した年の11月に、唐の郭務悰が皇帝の国書を持って大宰府に来ている。12月に天智天皇が亡くなられたこともあって、郭務悰は翌年の5月まで大宰府に滞在している。また、その唐船で沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝裟婆・布師首磐の4人が帰国しており、彼らも長く大宰府に滞在していたと思える。その後も新羅の使いが頻繁に大宰府を訪れている。この様な環境下で、青年時代の5年間を過ごした三野王は、漢文を勉強し達者になったのであろうと想像出来る。三野王が「帝紀」と「上古諸事」を記録し定める任務についたのも、漢文に長けていたからであろう。この三野王こそ九州風土記の乙類の述作者であると考える。
 

三野王は天武天皇のもとで、国の歴史を記録し残す仕事をしていたので、自ら筑紫大宰が管轄する筑紫の「縣」の歴史を記録したと思える。乙類の逸文の書き出しに「筑紫風土記曰 逸都縣」や「筑紫風土記曰 肥後国閼宗縣」のように冒頭に「筑紫」があるのはこのためであろう。九州風土記の乙類は、三野王が筑紫大宰の任についていた694年から700年の6年間に書かれたものと思われる。乙類に記載された天皇名は、神功皇后が「息長足」、継体天皇が「雄大迹」、宣化天皇が「檜前」であり、『古事記』と一致していない。乙類が『古事記』撰上(712年)以前に書かれているとすれば当然のことである。また、乙類の九州風土記が漢文の臭がする特徴を持つのも、三野王の経歴から考えて納得出来る。

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