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38-8.『日本書紀』の述作者 [38.日本書紀の述作者は誰か]

元正天皇の和銅7年(714年)2月に紀清人と三宅藤麻呂に対して国史撰述の詔勅が下りている。この時から、「原史料」を基に、『日本書紀』の述作が始まると考える。国史撰述に携わったのは、紀清人と三宅藤麻呂以外に、山田史御方と粟田真人であった。山田史御方がβ群の神代・神武~安康紀を述作し、粟田真人がα群の雄略~崇峻紀と皇極~天智紀を述作し、紀清人がβ群の推古・舒明紀、天武紀を述作し、三宅藤麻呂が持統紀を述作したと考える。 

山田史御方は、儒学を教える大学の大学頭までなっていることから、漢文にも長けていて、神武~安康紀に引用された漢書・後漢書・三国志・藝文類聚・文撰の漢籍を読んでいたと思われる。また、新羅に留学していたことから、百済・新羅の歴史に造詣が深く、百済記・百済新撰・百済本紀を読解し、神功紀・応神紀に百済・新羅と倭国との関わりを記載したと思われる。 

粟田真人(道観)は、唐に学問僧として12年間、定惠のお供をした。その定惠の父親が大化の改新の立役者である中臣鎌足であった。留学中に道観は定惠より、「大化の改新」の話を聞いていたと考える。中臣鎌足と中大兄(後の天智天皇)の出会は、蹴鞠の催しで中大兄の皮鞋が鞠と一緒に脱げ落ちたのを、中臣鎌足が拾って両手で捧げ奉ったことに始まると言う逸話も、道観が定惠より聞いた話であろう。そんなこともあって、粟田真人は大化の改新のあった皇極紀から書き始め、天智紀までを先に述作した。 

その後、粟田真人は唐から持ち帰った『金光明最勝王経』を引用しながら、雄略紀から崇峻紀を述作した所で、養老3年(719年)2月に亡くなった。享年は65歳頃であったと推定される。『日本書紀』が舎人親王により撰上される1年3ヶ月前である。本来、推古紀・舒明紀は粟田真人が書く予定であったが、天武紀を書いた紀清人が代りに記述した。紀清人は『書紀』撰上の翌年の正月に、山田史御方等と共に褒賞されている。森博達氏によると、皇極紀や孝徳紀には、倭習による加筆があるという。粟田真人が亡くなった後、遠慮することなく筆が加えられたのであろう。 
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