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38-9.『書紀』には原史料がある [38.日本書紀の述作者は誰か]

『日本書紀』の天武10年(681年)3月に、天武天皇が大極殿にお出ましになり、「帝紀」と「上古諸事」を記録し定めるようにと、川島皇子等13名に詔を発し、それを大嶋・子首に執筆させ、記録として残している。『古事記』の太安万呂の序には、天武天皇が「諸家に伝わっている帝紀及び本辞には、すでに真実と違い、多くの虚偽が加わっている。今この時にその誤りを改めなければ、今後幾年も経たないうちに滅んでしまう。これらは国家の経緯、天皇家(王化)の基本である。帝紀を撰録し、旧辞を検討して、偽りを削って正しきを定めて、後世に伝えようと思う。」と仰せになったとある。この文章こそが、大嶋・子首が記録した、天武10年3月の天武天皇が発した「詔」であろう。『古事記』の編纂も、『日本書紀』の編纂も、この「詔」が出発点であると考える。 

古事記の序には、「天武天皇が稗田阿礼に命じて、帝皇の日継および先代の旧辞を、誦み習わせられた。しかし、天皇が崩御になり、時世が移り、未だ其の事を実行されるに至らなかった。」とある。天武天皇が亡き後の、持統天皇から元正天皇に於いても、天武天皇の「詔」を守り、帝紀を撰録し旧辞を検討して、偽りを削って正しきを定める作業と、歴史を記録していく作業が続けられ、神代と神武紀から持統紀までの「国史の原史料」が完成されたと思われる。 

「帝紀を撰録し、旧辞を検討して、偽りを削って正しきを定めて、後世に伝えようと思う。」との天武天皇の「詔」から、「国史の原史料」が作成された。『書紀』の述作者は、「国史の原史料」を基にして『日本書紀』を書き上げたと考える。述作者は時代考証をする事なく後世の用語を用い、文飾するために後世の文章を引用し、物語化するために色々と工夫を凝らしている。戦後の多くの歴史学者は、その用語・潤色や工夫を見つけ出し、その矛盾を突き、『書紀』は信用おけないと、『書紀』の書いた歴史を否定するネガティブな研究を行なってきた。しかし、『書紀』を否定する歴史学者も、『書紀』無しでは歴史を語れていない。『書紀』の記事の根底には史実が書かれていると考え、『書紀』がポジティブに研究されれば、日本の古代史が明らかにされるであろう。『日本書紀』は捏造された歴史を書いた史書ではない。
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いしやま

日本書紀の真相
日本 読みヤマト 天皇 から始まり、大王は居ない。ワカタケル天皇は瑞垣宮に居た。
BC660年から日本といい、天皇が居たという主張をしている。
大化は郡制からはじめた。
これらは中国の史書や金石文とは異なる。別にあった国であると中国唐に主張している小説である。
ということではないでしょうか、目的は何でしょうか。

by いしやま (2014-06-02 10:58) 

いしやま

長屋王において日本書紀と続日本紀が整合していることは、長屋親王木簡と諾楽京薬師寺、平城宮跡の変更を見せる遺跡の推移から見て、改竄は驚天動地に到るものではなかったか
by いしやま (2017-11-04 09:58) 

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